【宗教は救いではない】宗教を漂流しタマシイの家族を求める苦しみ

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宗教に疑似家族を求めるがゆえに、宗教から離れていってしまう人がいます。彼が求めているものは明白なのですが、それゆえに得られない苦しさがあります。宗教やスピリチュアルを渡る人々は、カミュのシーシュポスの神話のようです。

るろうに剣心

1990年代、少年ジャンプ連載の漫画に、るろうに剣心がありました。るろうにとは、流れ者の意味で、流れ者の剣心という意味です。

いくつもの宗教やスピリチュアルな学派を流れ歩く人々がいます。彼らが何かを求めているのは明白です。ですから、あれからこれへ渡っていくわけです。

流れ歩くと見るから印象が悪くなるのですね。渡りをしていると見れば、また違ったテイストが出てくるでしょう。それは言葉遊びのひとつです。

その人々が、流れ者から渡り者になるためには、越えていかないといけない峠はあるのです。昔そんな幾つもの峠を越えていく流れ者のドラマがありました。木枯し紋次郎と言いましたね。彼は、結局は渡り者になれたのでしょうか。そこまで物語は描かれていません。

宗教と愛着

ある人が呟いています。何かやろうとすると宗教関係へ必ず行ってしまいます。仏教やヨガやスピリチュアル、ワンネスとかです。そういうところへ興味が行ってしまうのです。そこで充実するかというとそうではなく、結局、数か月か1年くらいで離れてしまうのです。そこにいる人は、みんないい人ですが、結局私は中へ入っていけないのです。

宗教にフリガナをふると、彼にとってはギジカゾクと成ります。凝集性の強い家族です。本当の家族よりももっと強いもの。元々は、彼は疑似家族を求めていくのです。しかし彼は、愛着の問題を持っており、あまりにその中へ入っていくと怖くなるのです。

ですから入ってはいくものの、途中で怖くなって跳ね返されるというか、その人が自分で跳ね返していくのです。入って行きながら、そこから遠ざかるのです。そんなメンドクサイやり方しかできないのです。

愛着というのは親と子の絆のことで、その人にとってはそれが宗教なのです。疑似家族ですから。愛着に問題のある人は親子の関係が本当に怖いのです。

宗教へ来る人々は、苦しい苦しいと思ってたどり着きます。だからみんな良い人で、普通の人、つまり愛着を経験した人が、苦しい思いをしてそこへたどり着く場合は、ギジカゾクが効果的に働くのです。魂の家族を経験できるからです。そういうワンネスの家族はしっくりくるのです。

しかし、彼のような人にとっては、このまとまりは苦しくて仕方ないのです。そこから離れていってしまいます。宗教に惹かれながら離れる、宗教を漂流していく。彼のような一群には愛着に問題のある人が潜んでいるのです。そのため結局、宗教は救いにならないということを幾度も経験することになります。

宗教を求めることが止められないということも、彼にとっては切羽詰まった真実です。ファンタジーは誰にでもありますが、そういうファンタジーによって彼は漂流を続けます。そのことを誰もジャッジできないのです。

宗教やスピリチュアル、愛着の問題を整理したいときは、ソレア心理カウンセリングセンターへ。

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