ゴリラもホモサピエンスと同様、深い思索をすることができるようです。人間と同じ感情を持っているようです。人間は人が居なくなっても、ひとりではないのでしょうね。ココちゃんの発した言葉について、人間側から考えてみました。
(動画ではPocoちゃんと話していますが、webで確認したらKokoちゃんでした。訂正しておきます。)
ゴリラのココちゃんへの質問
ゴリラは知能の高い動物です。あるアメリカの女性生物学者が生後数か月のゴリラを引き取って死ぬまで育てた記録があります。そのゴリラ、ココちゃんと言います。36年に渡る記録ですが、学者はココちゃんに手話を教えて、様々な会話を楽しみます。
ココちゃんは猫が好きで、可愛がりながら一緒に生活していました。しかし、その猫が交通事故で死んでしまったのです。ココちゃんは数年間、哀しみの中にいました。学者はココちゃんに問いかけました。
「死ぬとはどういうことなの?ココちゃん。」
「死とは苦しみのない穴へ帰ること」
そのようにココちゃんは答えました。ココちゃんの苦しみは、愛猫がいなくなった哀しみでした。ココちゃんは、喪失の悲嘆のなかで、この言葉を発したのです。
ココちゃんは自分のかなしみを受け入れているようです。それだけです。だから死にたいとは言いません。死にたいほどのかなしみと思いますが、そのかなしみが死へは直結していない。死というものと絶望は近い感覚です。悲しいけれど、絶望はしていないということでしょう。だから、悲しいけれど死なない。
ココちゃんは、淡々と、この言葉を発したのでしょう。まるでかなしみの果てを知っているかのようです。客観的に死を見通しているようです。ここからは私の想像になりますが、オキナワの伝説にニライカナイという死者が戻っていく楽園があります。かなしみの果てにある楽園です。
ココちゃんがこの楽園を知っていたというのは、ずいぶんと飛躍した話ですが、もしそうだとしたら、ココちゃんは宗教的な意味合いのものを体験していたといえるでしょう。
苦しみのない穴、死ぬとそこへ帰るといいます。では生きるとは苦しみのあることだと、ココちゃんは知っていることになります。けれど、ココちゃんはそこを生きようとしました。一生というものは苦しいけれど生きるに値するものだと、いわんばかりのココちゃん。
ゴリラの教え
ココちゃんは、「猫が死んで悲しいけれど、それは死にたいということとは違う」と話しているようです。死ぬと楽になるとかいう単純な話ではなさそうですし、楽になるよとは言っていません。穴へ帰るだけと言う。苦しみのない穴と表現しているだけで、楽な穴とは言っていません。自分は死なないし、その苦しみのない穴へ行きたいわけではない、という気持ちがくみ取れます。
死とは楽であるとか、そういうものさしでは計れない世界だと話しているようです。ココちゃんの言葉を聞いていると、それはまるである種の達観の域に到達しているようにも思えます。
おそらく、かなしみがココちゃんをそこまで引き上げていったのでしょう。かなしみというものは、そういう質をもった感情なのでしょう。人間だけのものではない普遍的な感情、或る場所へ通じる感情なのかもしれません。
宗教は人間だけのものと思っていましたが、それはどうも違うかもしれません。昔、カモメのジョナサンという物語がありました。一羽のカモメが上昇下降と続けて、飛翔について、精神の高みをめざすような話でしたが、あれは人間をカモメに置き換えただけのストーリーでしたが、ココちゃんの例ですと、動物にも実際に哲学的な思索ができるのかもしれませんね。
ともあれ、ココちゃんは、我々に真実を伝えてくれたのです。やすらかに。
死ぬほど苦しいときは、ソレア心理カウンセリングセンターへ。
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