過ごしやすかった場所に在るモノ★ある人の休戦協定

この記事は約3分で読めます。

過ごしやすかった時、あるいは過ごしやすかった場所には、特別な感じがあります。それが例えば、ほんのわずかな時間だったとしても、また随分と昔のことだったとしても、それがあることで何かが救われるように思うことだってあると思います。

過ごしやすかったということは、穏やかなムードが流れていた場所であり、その人の時代でもあります。

ある人はその時間を、停戦協定が発効されていた時とも形容していました。ひと時の休息の時間とは、そんな時間です。ある人は、今住んでいるところは本当に過ごしやすい。だからこの街で仕事はしたくないと言いました。(その人は自営で仕事をしている人なのです。)

それが今はなくなっていても、そういう時や場所を、かつて経験したことがあるということは、その人にとって大きな原動力となっていくのです。そして、かつて経験したことは、これからもいつか経験することなのです。

自分の好きなものが見つからないと訴える人がいます。そんな人は、休戦していた頃のことを思い出すといいかもしれません。そのときのムードのカケラを拾い集めて味わってみる。ひと時の安心感に浸る。その中から、自分に合うものが分かるかもしれません。無理のないものを選択できるかもしれません。

そうですね。自分の好きなものとは、無理のないもの。思い出に浸るといいますが、それは昔を懐かしんで終わりという意味ではないのです。懐かしんで、そのムードから自分自身を発見していくことなのです。

私本人のことをお話しすると、それは小学校6年~中学校1年にかけての頃と言えます。あのときに感じていたものは、50年経った今でも、何か違うもののように感じます。映画スタンドバイミーのラストで話される「特別だった12歳の頃。」誰しもそのような12歳があるのかどうかは知りませんが、そのような特別な年代は誰しもあるのでしょう。

サリンジャーのライ麦畑でつかまえての小説では、それは1週間でした。

そしてその遥か昔のその時代からモノゴトを始めていけばいいのでしょう。何度も言いますが、これは昔を懐かしむとか思い出すとか、そういうこととはちょっと違う話なのです。輝いていたあの日というニュアンスではなく、休戦していたあの頃、という感じ。スタントバイミーを持ち出したからちょっとニュアンスがズレてしまったかもしれませんね。

あのスタンドバイミーだって、永遠の12歳を懐かしんでいるわけではありません。小説家になった彼の今の人生の出発点としての確認のために、それを書いているだけで、初心忘るべからずという映画です。

私の場合、あの頃を確認するために、10代の頃に捨ててしまっていたアマチュア無線の免許証を、数年前に再発行してもらいました。あの免許証は私にとって休戦の証のようなものなのです。それだからと言って、アマチュア無線をやるか?と言ったら、やりましません。その時代があったという確認が私にとってみれば大切だったのです。

タイトルとURLをコピーしました