2009年9月に亡くなられた演出家・竹内敏晴の本の中に、ルソーの最後の著作「孤独な散歩者の夢想」の一文が紹介されています。
「わたしは、人間の自由というものはその欲するところを行なうことにあるなどと考えたことは決してない。」
これは、したいことをすることが自由なのではない、ということをルソーが言っているわけです。では自由とは何か、竹内は考えます。したいことをするのが自由であれば、人間でもっとも自由だったのは、自分の気分にまかせて大量虐殺を行なったヒトラーは、もっとも自由な人になる。だから、そうではない、とルソーは言っている。
あるとき竹内は気がつきます。自由とは奴隷の言葉だと。奴隷が、これだけは人間として、したくないと言い切ったとしたら、奴隷に待つものは死ぬことです。いいつけに反しているわけなので殺されます。しかし、死を覚悟してまでも、「したくない」と言い切ったらとしたら、そこには本当の自由がある。自由とは、その場、その瞬間の人間の尊厳なのだ。
つまり、したいことをするのが自由なのではない、「したくないことをしない」ことこそ自由なのだということです。
この自由という言葉を「幸せ」という言葉に変えても同じことになるでしょう。同じようなことをフランクルも言っています。彼はナチのホロコーストから生きて帰ってきて、その体験を「夜と霧」に書いた精神科医です。
「夢を実現しても、自分のしたいことをしても幸せにはなれない。」
私たちは、戦後民主主義の流れの中で、学校教育の中で、高度成長期の中で、「したいことをするのだ」という言葉で躾られてきました。したいことをするのは良いことなのだという呪いをかけられてきました。
このアメリカ伝来のスローガンが、いかに人間の精神をむしばんでいったか。カウンセリングに来る多くのクライエントさんは、したいことが見つからないのです。だから、したいことをしてよいと言われても途方にくれるだけで、したいことが見つからない自分を責め出します。
だいたい、したいことがわかるとか、やりたいことがわかる状態というのは、もう半分くらい病が治っている状態です。相談に来る人が、自分の気分が分からない、判断がつかないというのは、いたって病人としては普通のことであり、それが分からないからどうなんだ、病態水準が悪いのではないか、などグダグダという医者もいますが、そういう人はそういう躾を子どもの頃から受けてきたということでしょう。
ルソーやフランクルが言うように、したいことをするのが重要ではなく、自分がしたくないことをしない、ということのほうが、もっと重要で、もっと自由や幸せに近づける姿勢なのです。
自分がその人生において、何かしら行き詰ったとき、
「したくないことはしない」
と腹にグッと力を入れて、この言葉を腹の底に沈めてみてください。
そして、じっと頑張って、そこにとどまってみてください。
この視点でいろんなものを眺めてみることは、自分を大切にすることにつながります。
自分が自分で居ることができます。
自分としてその場所に立ち止まることができます。
自分が自分から立ち去ることなく、その場所で自分の足で立つことができます。
これはマインドフルネスということでもあり、本来の自分へ立ち戻り、自分の感覚に忠実になるための重要なポイントです。
したくないことはしなくていいんです。
参考図書:「からだ」と「ことば」のレッスン(竹内敏晴 講談社現代新書)