グループセッション

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グループワークでは何が起こっているのかをお話します。

一対一で向かい合ってカウンセリングする個人セッションとは異なり、グループセッションは数人の参加者とカウンセラーによる多人数で行なうセッションです。

この記事では、グループセッションとは何をやっているのか、そこで何が起きているのかを考えてみたいと思います。

グループの場というのは一対一とは違う雰囲気があります。

(1)グループの場とはどういう場なのか
(2)他者の前でワークする効果
(3)癒しの起こるプロセス

3つに分けて見ていきます。

■グループの場~症状固有のエネルギーが集約する場

グループセッションに来る人はさまざまな悩みをもっています。その悩み自体はエネルギーなのです。エネルギーには良いも悪いもありません。悩んでいる人が多い場合は、そのようにエネルギーの場(物理用語でポテンシャルといいます)が自然と高くなるのです。重いうつを患っていてほとんど動けない、エネルギーが枯れ果てていると見える人も、思いつめて諦めているような表情であっても、エネルギー的には高い状態なのです。このエネルギーとは何なのでしょうか。

私たちカウンセラーはうつの当人や家族にはだいたい同じことを言います。こころのエネルギーが落ちていますから、それが十分にたまってくるまでは休んでいてください。少し良くなったと思って油断して急に動いてはだめですよ。家族の方も当人が機嫌よくしているからと言って、これをやろう、あれをやろうと、すぐに要求水準をあげないでください。少し良くなったくらいでは、まだ39度くらいの高熱状態と同じです。だからまだまだ休養が必要です。励ましもエネルギーを消耗させます。励ましとは、当人が「もうだめだ」と言ったとき、「そんなことないよ、大丈夫だよ」と応答することをいいます。こういうときは「そうか、苦しいんだね」と相手と同じ方向を向いて一緒に落ち込んでください。エネルギーとからめて、このような話をします。

この話の「こころのエネルギー」とは当人にもともと内在している生きるためのエネルギーです。精神的なエネルギーや身体的なエネルギーを含みます。先に話をした悩みそのものが持っているエネルギーとは、悩みという精神症状に由来するエネルギーのことです。これは症状が固有にもつエネルギーですので、治療が進んでいくと、このエネルギーは少なくなっていきます。

症状があったときは非常に創造力があり芸術性豊かな表現をしていた人だったのに、症状が治癒していくにしたがってその能力がなくなってしまうことがあります。精神医学的にみると、妄想や解離を使っている人々に多くみられます。これを嫌う芸術家肌の人もいますが、症状が治るとはそういうことなのだと理解してもらっています。残念な部分はあるよね、と伝えています。生きるのは何かを捨てることだから、純粋なあなたには辛いよねと、しんみりと話します。

この症状固有のエネルギーですが、じゃあ私、治らなくていいよ、という人もいます。その人には、どのあたりで折り合いをつけたいのか、という話し合いをします。でも、あなたも変化するわけだから、元のようにはできないよね。自分の変化を自分の糧として新しい自分を探究していくことは必要だよね、という話へ落とし込んでいきます。

グループセッションの場で主に飛び交うエネルギーは、このような症状固有のエネルギーです。しかし症状固有のエネルギーと定義してしまうと、その現場へ居ることだけでも病気になるのじゃないかと心配する人もいるかもしれませんね。しかしエネルギーには良いも悪いもありません。純粋なエネルギー状態がそこに在るだけです。純粋というと落ち着かれる人もいらっしゃいますか。エネルギーはピュアなんです。良いも悪いもない。それをどう活用するかは、エネルギーの受け手次第です。もしそれで病気になるのだったら、カウンセラーの私はとっくに病んでしまっていることでしょう。私が今元気でいられるのも、クライエントさんから頂いている症状固有のエネルギーのおかげと言えるかもしれません。

エネルギーという観点から見ると、トラウマは「凍ってしまったエネルギー」です。実はトラウマ体験そのものが精神的にダメージを与えているわけではないのです。その体験によって発生した身体からの巨大なエネルギーが解放されずに体内に蓄えれられてしまっているために、身心にさまざまな負担を強いているのです。犬を見てください。散歩させていて相性の悪い犬と出くわすと、姿勢を低くしてウゥーと低い声を出して威嚇します。これを定位行動といい、危険を察知しそれに対応するための自然な行為です。そしてすれ違って危険が通りすぎると、ブルブルと全身を身ぶるいさせます。これは身体にたまった闘争しようとするエネルギーを放出させているのです。この身ぶるいがないと、体内にはエネルギーがたまったままになり、生物は生きていくことができなくなります。人間も同じようにトラウマによってたまったエネルギーは解放させる必要があるのです。トラウマのカウンセリングはそれを目指していきます。

さて、グループセッションでは、その場に満ちているピュアな症状固有のエネルギーをどう使っていくのかが、カウンセラーの役割となります。

例えばワークをしている途中で否定的な感情が出てきたとします。しかし否定的なのは感情であって、エネルギーは否定的でも肯定的でもないわけです。そこで、カウンセラーは否定的な感情にエネルギーを与えるのではなく、その否定的な感情がどのような方向へ進みたいのか、感情が辿りたい進路(プロセス)を辿るためにエネルギーを使うのです。怒りを代表とする感情というものは生理的なものです。ほっておけば低下していくものです。ですから感情にエネルギーを与えるのではなく、その感情の進みたい方向、セッションに参加している人々の気づきの中から集約的に生まれてくるその方向へエネルギーを向かわせるのです。

症状固有のエネルギーは個人セッションでも同様にありますが、グループセッションのほうが人数が多いだけ集約的に、ある方向性を持って出てくる可能性が高いのです。個人セッションはそれが非常に幽(かす)かな揺れとして現れます。受信できるかできないか、遠い惑星から届くETからのメッセージのようなものです。グループセッションはそれが比較的わかりやすい表現として現れます。幽かなものが癒すものと、集約的な表現が癒すものは、それぞれ対象が少し異なります。幽かなものはより個人的な深みへ、集約的なものはより普遍的なつながり(対人関係)へダイレクトにアクセスするのです。

■他者の前でワークする効果~恥の上塗り効果

恥の上塗りについては、精神科医の斉藤学が自助グループにからめて言及しました。集団の前で話す効果についてです。

他者の前で話す効用の最も大きなものは「恥の上塗り」効果です。集団の前で自分の相談をするオープンカウンセリングでもそうですが、複数の他人の前でワークをしたり話したりすることはそれだけで大きなストレスです。そのストレスに負けまいとしながら勇気を出して参加されるわけです。実際に話したりしなくても、そこへ参加しようとした勇気だけでも、自分に大きなチカラを与えてくれます。その場に居てみようとする、他人と何かを共有できるかもしれないという期待を持ってそこへ来る、これが一番の大きな効果となるのです。

グループでのセッションは、通常の個人セッション以上のストレスがかかります。得るものも大きいですが疲労も大きい。人によっては具合を悪くされるかたもいらっしゃいますが、それはストレスによるものなので、しばらく休んでいたら必ず良くなります。数日調子の悪い日が続く人もありますが必ず回復するので、薬などは飲まずにひたすら休むのが良いのです。

恥の上塗り効果に戻りますが、人前で話す、ワークするというのは、個人セッションよりも大きなストレスがかかっています。このような圧力のかかった状態での語りというものは、本当の自分が出てくる可能性が大きいのです。対人恐怖や得たいの知れない衝動に苦痛を感じている人が、このような集団の場に参加することは、さらに大きな苦痛となります。しかし、周囲に居る人たちは好意的にあなたの話を聞いてくれる人々です。このような場で自分の苦痛というものに直面すると、いままで個人セッションでは話すことのできなかった最も重要なものに出会うチャンスが巡ってくるのです。トラウマの深部が開かれるのです。集団の場で話すことが、いわばトラウマへ外科的なメスのように働くのです。

はじめは、場をつくろってカッコいいこと、耳触りのいいことを話すでしょう。それは自然な行為です。それを咎めることはありません。そこからスタートして、幾度となく、好意的聴衆の前でワークをしていると、カッコいい自分が剥(は)がれ落ちる瞬間がやってきます。個人セッションだと数年かかることがグループセッションだと数か月でそれがやってくる場合がある。その瞬間にいままで話してこなかった重要な告白が浮かびあがってくるのです。トラウマの出現です。

この恥の上塗り効果はグループセッションのほうが個人セッションより大きいのです。ただ告白まで行けるかどうか。ここは話されるかたの個人の資質によるところも多いのですが、力のあるカウンセラーならそこまでやれる人もいるでしょうね。(私にそれができるかどうかは自信ありません。)個人セッションの良さというのは、これまで得ることのできなかったひっそりとした親密さを体験する、その親密な関係の中で静かにホールド(抱っこ)されるという体験をする、癒される、そんな良さがあります。情緒的見捨てられ感が付きまとっている自己愛が傷ついた人々にはそのような空間も必要です。その中で、ナルシシズム(傷ついた自己愛)がセルフラブ(自己肯定愛)に変わっていくからです。こういう強力な信頼関係(ラポール)をあらかじめ作っておくことは、グループセッションによってトラウマが刺激されたときに重要な働きをします。

というのも、信頼関係があるので、トラウマを話している最中に死にたくなったり人を殺したくなったりしたとき、そこに止まることができるのです。この十分な信頼関係が形成される前にトラウマが刺激されてしまうとその衝動を自分でコントロールできなくなってしまう可能性があるのです。カウンセラーとの間に信頼関係が出来上がっていると、そのような衝動が出てきたとき、上手にそれを利用することができるようになります。抑えることだけがコントロールではありません。それを自覚し利用して飛翔すること、表現すること、それをコントロールと言います。(芸術家は自分の衝動を上手に利用している人々です。声の大きな人は怒りを内に秘めた人ですが、工事現場では重宝されるでしょう。)私の少ない経験では、少なくとも数ヶ月の個人セッションで十分な信頼関係を作ったあとにグループセッションへ参加されるのがいいかと思います。こうしてグループと個人の両方を上手に使ってセッションを続けていくことが、相談されるかたのチカラとなっていくのでしょう。

さて、グループセッションではワークすることと同じくらい重要なことがあります。それは密度の高いシェアリングをしているという事実です。自分の話を好意的聴衆の前でする。これによって、起きたことを映像を見ながら話しているという経験をします。これは客観的になれるというのと同時に、「私の話の中には創作が入っているかもしれない」という暗黙の気づきがあります。記憶とは曖昧なものです。過去の記憶はどこか想像した映像が入りこんで記憶として定着しているものです。100%の事実として記憶されているわけではありません。映画を見るように話すということは、このことを暗黙のうちに気づかせてくれるのです。(暗黙というのが大切です。人は暗黙的に納得しないと納得しないものだからです。)

人前で話すということは勇気のいることです。なんでこんな話を人前で話さないといけないのかという気持ちになります。この苦痛を続けるのか止めようかと悩みます。話をするように仕向けているカウンセラーを恨みもします。しかしそれを乗り越えて話していると、だんだんと落ち着いてきて、話の内容がどんどんと細かくなっていきます。細かくなっていくと、その話へ登場する他者へも細かな焦点が当たるため、自分が関与しているストーリーの割合が少なくなってきます。それまでは「私は被害者なのだ。だから辛い」という記憶しかなかったものが色合いが変化していきます。トラウマの中心部分が、強烈なカラー映像だったものが淡いセピア色の映像に変化していきます。(あるいは冷たい色や無色だったものから暖色系に変化します。)逆に今まで見えていなかった部分も暖色系で映像化されていきます。それによってどんどんしゃべるようになり、ある日、かさぶたがポロっと剥がれ落ちるように、トラウマが自分から剥がれ落ちるのです。密度の高いシェアリングという空間で自分の中に変化が起こる瞬間です。

この変化は霊的に日常生活の中で進行していきます。参加された人はセッションが終わると日々の生活へ戻っていきます。そして日常生活の中で何らかの神秘と重大性を見つけることで自分が霊的に覚醒され、自分で自分を治療していくサイクルに乗るのです。何らかの神秘と重大性、これは実に小さな当たり前な普通の体験の中にそれが隠されているのです。

この恥の上塗り効果は、グループセッションだけでなくオープンカウンセリングでも同様に起きているのです。恥ずかしいことを人前で話すことが効果的なのは、このような理由によるのです。

■癒しの起こるプロセス~自分を癒し他者を癒す。どうやってトラウマは治療されるのか。

私たちは日常生活では、自分のこころの傷(トラウマ=PTSD)にいかに触れないようにするか、最大限の努力をしながら生活しています。なぜならトラウマとは自分にとっては危険な記憶だからです。

トラウマというものは、それを抱かえこんでいるうちは果てしのない苦しみの中に居ます。しかし、この自分の中にあるトラウマに直面して心を開いて沈み込んでいくとき、自分の身近にいる親密な相手の中にあるトラウマをも癒す作業をしているのです。

村上春樹のねじまき鳥クロニクルは、主人公の僕が井戸の底へ降りていき、そこから別の世界へ通じる道を辿って失踪した妻を助ける物語です。井戸とは、僕が負っているトラウマであり、その底へ降りるということはトラウマに直面することを意味します。そして井戸の底ににとどまります。これは逃げずにじっと自分のトラウマを体験し続けることです。こうすることで愛する相手へ通じる道が開かれます。トラウマが開かれます。そして、そこを通って相手を救出することが可能になるのですが、それは相手のトラウマを癒す作業そのものです。こうして、ねじまき鳥クロニクルは、大きな枠組みで読み取ると、トラウマを癒す過程が描かれていると言えるのです。

これは、ユングでは集合的無意識、西田幾多郎では歴史的身体によってお互いが通じ合っているということですが、別に人類共通の集合的無意識や歴史的身体という仮説を持ち出さなくても、個人の無意識は親密な他者の無意識へ通じているという当たり前のことを言うだけでこと足ります。このような無意識の間の通路を、精神医学やカウンセリング理論ではラポールと呼んでいます。

親子の間でも同じことが起きています。子どもが苦しんでいるとき、親はそれを自分の苦しみとして感じます。そして黙ってそこに居ようとします。あわてずに、相手を急(せ)かすことなくそこに居る。親が自分の痛みを十分に味わい、それに対して自分を開いていくとき、自分が味わっている痛みは子どもと同じものなのだという発見をします。この気づきの瞬間、親の心の底と、子の心の底が一筋の道でつながります。この道によって子どもは親に癒され、親は子に癒されるのです。どちらがどちらを癒しているのではありません。お互いがお互いを癒しているのです。心の底に通じ合う道とはこのような道なのです。

グループセッションでも同じことが起きるのです。こんなことがありました。話したくないことがある、目の奥が痛いと訴えるAさんが居ました。Bさんを呼んで、Aさんの両目に手をあててもらいました。まさしく手当てをやってもらったのです。このときBさんはAさんの気をもらって、喉が苦しくなります。首が締め付けられる感覚だったそうですが、自分の苦しみではなく何かが来ているんだという不思議な感覚だったそうです。苦しくはなかったそうです。

このときBさんが感じていたことは、相手のピュアな部分から何か辛いことを語りかけられているような感じ、会話じゃなく、相手のピュアな部分、赤ちゃんに近いものが、自分のピュアな部分と交流していたような気がしたそうです。天使が話しているようだったと語っていました。Bさんは、セッションのあと、長年同居しているルームメイトとの関係がこれまでとは違う印象になったそうです。これまではずっと違和感があった会話が普通にできるようになったそうです。自分が自然に応対した分、最初ルームメイトはおどおどしていたそうですが、そのうち二人とも自然な会話になったそうです。

ここでは、確かに霊的な交流が起きていたのだと思います。実際の動作は、手をあてているだけです。周りから眺めると、手をあてるほうは癒す人、あてられるほうは癒される人です。しかし、目に見えない気持ちのやりとりとして、双方が癒し癒されるという交流があったのです。その結果、手をあてていた人の日常が霊的に覚醒されたのです。このようにしてトラウマは治療されていくのです。

グループセッションに参加される方は、こころに傷を負った方が多いので、このような交流が行なわれる可能性があります。しかし、このような交流はいつも起きるわけではありません。自分が援助者なのだという意識で相手に向かっているときは、このような交流は起きません。援助者という役割(ペルソナ)をかぶってしまうと、本来の自分(シャドウ)が出てこれなくなるからです。本来の自分とは赤ん坊のようにふわふわ柔らかな手を持つ者です。

ふわふわとした柔らかな手。このインナーチャイルドの手には確かに相手との回路を開く霊的なチカラがあります。この手によってお互いがお互いを癒すのです。私は、Bさんに、こんな手でおにぎり作るときっと美味しいよね、と話しました。

さて、手をあてられていたAさんはどうだったかというと、他人から見られている、感じ取られている気がして早くこの場から居なくなりたかったそうです。出したいものがあってもそれが何かわからず、急いで出さないといけないのかというプレッシャーがかかり、出せない自分が悪いのか、弱いのか、という気持ちになっていたそうです。

この話は、グループセッションのあとのAさんとの個人セッションで出てきました。グループセッションでのAさんのプロセスが途中のままで完了していなかったので、個人セッションはこれを完了させるためのセッションとなりました。

言いたいものがあるのに言えないというのは、言わないことによって自分で自分を守っていることなのでグループセッションで言わなくてよかったねと応対したあと、似たようなことは他にあるか聞いてみました。すると母に何かをぶつけたいのにそれが何かわからないという話が出てきました。その底には、モノに当たりたいような怒りがありました。親の顔色を伺いながら自分を抑えつけざるを得なかった幼少期、そんな自分へ追い込んだ親へ対する怒りです。

他人から直接命令されるのでなく、自分で自分に課した禁止令というのは一番のトラウマとなります。実際の虐待を受けるよりも大きな傷として残るものなのです。例えばレイプによるトラウマは、実際に乱暴されたことよりも、相手に命令されて自分で衣服を脱いでしまったということに対しての後悔によるもののほうが大きいのです。相手の命令にしたがってしまった、相手に負けてしまった、それによって自分の意志とは違うことをさせられたということへのトラウマです。これはとても大きな自己否定感につながります。

Aさんの上半身は、話しているうちにだんだんと左に傾いていきました。それほどまでに重たい怒りだったのでしょうか。自分で一番取りたい姿勢をとってもらうと、横になり丸くなりました。手の先が冷たくなりピリピリしてきた。胸が青い感じで白いモヤが1つポツンと光っていて、それがすごく哀しくて締め付けられると語り、ハンドタオルで目元を抑え涙が止まらなくなりました。青いイメージは自分が小さな子どもに戻ったようなイメージだったそうです。その後、胸から腕を通って指先へ温かさが伝わり、ギュ-と締め付けていたものがほぐれ、青が濃い紫になり、それが暗い山なみへ変化し、赤みがかって胸が温かくなりました。そして体が動き目を開けたとき、この部屋が明るい感じになって(視覚のモダリティが変化したのです)一連のプロセスが終了しました。かなりスッキリしたと言っていました。

この後、母親のことをしゃべるAさんは、しっかりとした視線でハッキリと、しかしクールに、母親への怒りを表現していました。こうしてグループセッションで起きたAさんのプロセスは個人セッションで完了したのです。

Aさんのプロセスは、なぜグループセッションで完了しなかったのかという疑問が出てくると思います。グループでも完了はします。しかしそれは、今のAさんにとっては多大の負荷になったのでしょう。グループで、それ以上のプロセスが進むことを拒否したAさんの無意識的行動は正しかったわけです。しかし無意識にしたがっていれば万事うまくいくとは言い切れないので、そこはカウンセラーが参加者の現在の状況をよく観察しながらセッションを進めなければなりません。

Bさんはグループセッションで新しい体験をし、それを自分の手に入れました。Aさんはグループセッションで刺激された自分の感情の底にある怒りを個人セッションで完了させました。このようにグループセッションと個人セッションは相補的な関係にあると言えるでしょう。

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