ジョンレノンの平和~Give Peace a Chance
自由というとジョンレノン。平和を我らに、という名曲があります。平和=自由ですね。自由は必要、そして絆も必要。
21世紀になってジョンレノンのことを揶揄する人が増えたと思うのは私の思い過ごしでしょうか。彼を排斥した一番手は、なんと自由の国の代名詞、アメリカです。つまりアメリカはそれほど自由じゃないということです。アメリカ映画に自由を描いた映画が多いのは、それだけ自由ではないということなのでしょう。
まあ、色んな考えがあっていいのですが、自由なジョンの魂は、今でもそこに息づいているようです。それを無視したとして、それはやってくる。
そういう確かなものはあるのです。
Give Peace a Chanceは、Live Peace in Toronto 1969というアルバムの収録曲ですが、その次のアルバムがジョンの魂です。ここにはあの “Mother”が収録されています。
少し前の配信で、QueenのBicycle Raceでアメリカに反旗を翻すフレディマーキュリーの話をしましたが、今日のようなことを書いていると、フレディにジョンの魂が乗り移ったようにも思えてきます。
気がつくと、ジョンとフレディは同族のゾンビ族でした。
自由と絆★カウンセリングにおける回復
YouTuber 高間についての話です。ここ1か月、動画を連続配信していて自分を表現しています。
これまでのカウンセラーとしての私は受信一方でした。ところが、YouTubeで突然大量に発信するようになったので、相談者の人がびっくりして発信しづらくなった、というのです。それはそうだろうなと思うのです。その感想はもっともです。
カウンセリングとは受信が大事、口を差し挟まないことが大事。動画を配信するようになりましたが、カウンセラーとして対面するときは、スタンスが変わったわけではないので、やはり受信一方には変わりはありません。
これまで、黒子としてほぼ何も明かさずにやっていましたが、ここに来て思うのは、相談者に自由になってほしい、私と相談者の絆を結んでいきたいという気持ちもあって、垣根を超えるのでなく、垣根を低くして対面しようかという思惑があるのです。そのための動画配信なのです。
垣根が低くなると顔がよく見える。どれくらいやれるか分からないけれど今のところ動画を毎日配信しています。
自由というものが回復には大切です。それにはカウンセラーが自由を見せたほうがいいと思いました。それでYouTubeだけでなくLINEも始めました。何も知らないところから分厚いLINEのマニュアルのような本を買って、読み込みました。何をしたらいいのかを実践しているところです。認証済の公式アカウントがいいそうなので、登録者が増えている勢いのついているときにLINEへ認証申請をして、それもみなさんのご協力で通過することができました。感謝しております。そうやって、私のほうで垣根を少しづつ低くしています。
タイムラインにも毎日投稿して志木の街並み、雲の話などを自由に配信しています。週1の日曜夜のメッセージ配信も自由にやっています。心理ボケなどを載せながら。それを読んで、少しでも自由になってほしい思いがあります。その関係性の中で私との関係性が深まればいいなと思います。
カウンセリングに来る人々は愛着の問題がある人が多いので、関係性が深まる中で私を通して絆とは何かを体感していっていただきたいと思います。
同業者にも告知はしていますが、冷ややかな目で見ていることもあるみたいです。カウンセリングにおける二重関係を少し踏み出す関係性になるので、注意したほうがいいと思っている人もいるのでしょう。しかし、愛着の問題を始めるには、そういう踏み出しが必要と思うので、それも織り込み済みでLINEやYouTubeを始めています。よければLINEアカウント登録していただければと思います。
週1の日曜夜の配信と毎日のタイムライン、役にたたない志木情報を読んで、少しでも自由に息ができるといいなと思っています。
私は、一日のカウンセリングが終わると、今日やったセッションを大きく回想します。個々のカウンセリングはそれが終わった直後にメモやら反省をするのですが、一日の終わりにも全体を回想するのです。そうすると、例えば6ケースやった場合、その6つの個々の話が大きく一つに繋がったりすることもあります。
こういう場合、何かに書こうとメモするのですが、私は文章を書くのがヘタでおっくうなので、せっかく閃いたものも私の記憶から抜け落ちていくことも多々あります。それを留めるために、YouTubeを使っています。5分くらい話すだけなので、実に簡単で、それでいまのところ続いているのです。
またそうやって思ったことを他の視聴者と共有することで、その中の一人でも何かに響いたとしたら、私のYouTubeは役に立ったということで、十分にその役目を果たしたことになります。それで十分です。