2013年の夏、人間活動中のため休業中の歌手、宇多田ヒカルの母親、藤圭子が亡くなりました。知人のマンションから飛び降り、62年の人生を閉じました。
境界に生きる
この記事のタイトルには「境界に生きる人々」とサブタイトルを付けました。彼女たちのような関係の人々はたくさんいるからです。そのような人々へ向けてのメッセージの意味も込めて、この記事を書いています。
「境界に生きる」と書きましたが、これは境界性パーソナリティ障害(BPD)を意識しているわけではありません。彼女たちはBPDではありません。どこの境界かというと、あっちの世界とこっちの世界の境界ということです。あの世とこの世の境界である三途の川=臨死体験の場所、山と町の境界である里山、座敷わらしの住むトワイライトゾーン、宵やみ迫る夕方、そういう境界世界に藤圭子は住んでいました。宇多田ヒカルはそこには住んでいませんが、そこを垣間見てはいました。そこに住んでいるか、見ているかの違いは大きいのですが、ここでは、この境界に住むことがどれほどのことかを分かっていただくために、同じ目線で見ていきたいと思います。
ムーミンに出てくるスナフキンも境界に住む人です。ムーミン谷では寝泊りしません。いつも山のふもとや川のそばにテントを張ってひとりで食べて、ひとりで寝ていました。スナフキンも藤圭子も同じ世界の住人なのです。ひとり、孤独の住人です。
境界の雰囲気は、境界性パーソナリティ障害とは違う
宇多田ヒカルがデビューして数年たった頃、私はサブカルチャー雑誌に載った彼女のロングインタビューを読んでいました。その当時、ある20代女性Aさんの面接をどのようにやっていこうか悩んでいたのです。4か月後にアメリカの大学院に行くので、それまでになんとかしてほしい、とのことでした。4か月やそこいらでどうにかなるものでもないし、と始めたカウンセリングでした。Aさんは通院もしており、病院側も私の見立てもBPDで一致していました。BPDであるなら自立を促していくことになります。
私は宇多田ヒカルにBPD患者特有な雰囲気(人間に関しての希求感)を感じていたので、本屋で偶然見つけた彼女のロングインタビューを、まさにそこに私のクライエントであるAさんが居ると思いながら読みました。その日以来、この本を横に置きつつ、宇多田ヒカルのイメージを指標にしつつ、Aさんのカウンセリングを続けていました。
当時は(いまも?)BPDの治療は苦手でした。治療者側もかなり消耗します。しかしそのような苦手意識をもちながらも、カウンセリングは停滞せずに進んでいきました。なぜ停滞しないのか、なぜ進んでいくのかも、その当時は分かりませんでした。治療が進んでいることを示唆するように、彼女の様子は悪化し、母親への反乱も大きくなり、自殺の危険が迫ってきていました。策も尽きたかと思われた直後、急浮上して終結を迎えます。アメリカへ旅立つ数週間前でした。
なぜBPD治療の苦手な私が、彼女の治療に成功したのか?BPD治療の腕が上がったからなのか?そんな簡単に腕があがるわけではありません。
よくよく考えると簡単なことでした。それは彼女がBPDではなかったからです。そのことを理解するまでかなりの年月がかかりました。
いま、このAさんの治療を通して理解したことを整理すると、世の中にはBPDと誤診されている人はかなりいる、ということです。(ちょうどPTSDの方が発達障害と誤診される話に似ています。)本当にBPDと診断される人はかなり少数だと思います。おそらく、そのような人々(本当のBPD)は別の診断名(軽度知的障害や境界知能など)が付くように思います。だから極端なことを言えば、BPDという診断名は必要がないとさえ言えるかもしれません。
BPDの本質は何か?
では、BPDと誤診されている人の大部分はどのような病理なのか。分かりやすく言えば、「思春期」という病理です。「思春期」というものは普通に考えれば病理ではありません。しかしそれが病理になるくらい、激しいものに、厳しいものに、なってしまっている、ということです。激しいから、普通と違うので、何か名前をつけないと治療に乗っていきにくい。そこで登場したのがBPDという命名です。
また愛着スタイルという考え方がありますが、それでいうと「思春期の人々」とは【不安型愛着スタイル】の人々とも言えそうです。愛着スタイルについては、下記の関連記事をお読みください。
また、BPDと誤診される場合で「思春期」以外の病理の人々がいます。それは虐待されて育った人々です。精神医学的にはPTSD(C-PTSD:複雑性あるいは複合型心的外傷後ストレス障害)です。被虐待児は「思春期」の病理ではないので、アプローチも異なってきます。このようにBPDと言われる人々の中には、様々な病理が、本質的に存在しており、その本質的な部分にアプローチしないと治ることはむずかしいでしょう。
このようなことを、Aさんの治療を通して理解しました。
斉藤学先生のBPTという定義
精神科医の斎藤学氏もBPDと診断することは少ないと言います。彼は大多数をBPTと呼びます。Borderline Personality Tendency (境界性パーソナリティ傾向)の略で、彼独自の定義です。このBPTの中で程度の強い一群をBPDとしています。
思春期の病理へのアプローチは受容とアートセラピー
Aさんのカウンセリングが実際どのように行われたかというと、アートセラピーが主でした。Aさんをホールディングすることを主目的にやっていました。BPD治療の大前提となるはずの自立を、全然、促していません。そして、Aさんに秘密にして2回ほど両親とのセッションをやっています。実はこの両親とのセッションが効いていたのです。
私はこのセッションで両親を脅します。このままだと娘さんは死ぬよ、と。そこで両親もあわてて行動を起こします。それがAさんにカンフル剤のように効き、浮上していきます。私はAさんとはほとんど何もやっていなかった、ということです。ただ絵を見ていただけ。それがBPTのような思春期の病理には良かったということでしょう。
BPTへの対応は、本人よりも、両親へのアプローチがいかに重要かということですね。なぜなら、思春期の病理だから。両親は子どもと親密な関係を作ること、これが思春期対応の第一原則なのです。
Aさんのことを思い出しながら、宇多田ヒカルは思春期問題をひきずっているのだなというふうに今は思っています。ヒカルが境界世界には住んでいないと先ほど言いましたが、それはこういうことなのです。
思春期問題なので、境界世界のように見えるが、それは見えるだけで、それを垣間見ているだけで、そこにどっぷりと浸かっているわけではありません。これは普通の青少年が辿る道です。ヒカルは普通の道を辿っていたのです。決して母親と同じ道ではないのです。そこがヒカルの救いでもあるでしょう。
彼女は、普通人になっても、芸能界へ戻っても、どちらにしてもなんとかかんとか生き延びていくでしょう。そこが母親である藤圭子とは決定的に違う。ヒカルは母親とは離れた生活を送っていましたが、気持ちは常に母親を求めていました。母親もヒカルの才能を見抜き、芸能界デビューと大学進学を後押ししました。このように藤とヒカルの間には、母子の愛着が普通の親子のように存在していたのです。母子の愛着関係が成立して育ったヒカルは、多数派の人々なのです。
藤圭子はヒカルと違って、辺境の境界世界を生きる人です。母子の愛着が切れている場所で生きる少数派です。愛着が成立していないので彼女の世界観はいつも絶望に彩られています。彼女が命を絶ってしまったのは偶然ではないのです。
ここで藤の半生を簡単に辿ってみます。ネットからの情報なので正確でないところもあるでしょう。参考にはなりますが、このような経験をしてきたから、彼女の心理状況はこうだ、などと推し量ることはできません。あくまでも参考として見ていきたいと思います。
藤圭子の生きた道
幼い頃から浪曲歌手の父と三味線瞽女(盲目)の母に同行し、旅回りの生活を送り、小学校にも満足に行かせてもらえなかった。勉強好きで成績優秀だったが、貧しい生活を支えるために、高校進学を断念。17歳の時にレコード会社の関係者の目に留まり、上京。1969年に歌手デビュー。
ヒカルが米国の名門コロンビア大学(ニューヨーク市)に合格したのも藤の存在が大きく、幼少期に学業を犠牲にせざるを得なかった経験を、娘にはさせたくなかったからと言われている。
1971年
歌手の前川清と結婚するが翌年に離婚。
1979年
引退し渡米。宇多田氏と再婚。以降、宇多田氏と複数回、離婚と再婚を繰り返す。
1983年
ヒカルを出産。
1993年頃
稼ぎを食いものにされたと、母と絶縁。藤が稼いだ金を遊興費として使い込んだためであるとされる。以降、一度も会うことはなかった。
2002年
ヒカルが結婚すると、全ての縁を断ち切るようにひとり放浪を始める。
2006年
ニューヨークの空港で所持品検査でひっかかる。捜査官が疑ったのは、手荷物のバッグに入った現金5000万円が理由だった。人間不信から銀行も信用できず、普段からキティちゃんのバッグに札束をいくつも入れて持ち歩いていたのだ。「5年間で世界中を旅した。ファーストクラスの飛行機代、ホテル代やカジノで5億円使った」
2010年
藤の母、死亡。藤は葬儀に訪れなかった。母は、病床で娘と孫に会いたいと願ったそうである。
2013年
死亡。
背景にある症状や行動
このような人生を生きた藤ですが、今回の自殺の背景となっている症状や対人関係はどうだったのでしょう。彼女を知る人々の証言を拾ってみました。こちらは藤の生の声も入っているので、藤の心理状態を推測する参考になるでしょう。
藤は知人に、「感情を抑えることができない。パニック障害と診断された」と明かしていました。「原因不明ですけど、この20年間(高間注:ヒカルを出産した後から)吐きまくりの人生です。週に3回は吐いてる。今でもそう。だからどっか悪いと思うんだけど」「24時間、頭が痛いし、24時間、口の中が風邪をひいた時みたいに38度の熱があるし。体中痛いですね。それから寝られない」などの身体症状がありました。
藤さんは、ニューヨーク空港で捕まった件のは「すべて家族のせいだ」というんです。「旦那も冷たいし、家族(ヒカル)とも疎遠になって、ほとんど一緒にいない。寂しいし、ほかにもいろいろあって人間不信になっている。だから現金を持って、好きなギャンブルをして歩いている」と、切々と訴えるんですよ。早口で一方的に話し、目の焦点があっていない。
ときには少し涙ぐむ様子で「ヒカルは冷たい」と何度もいっていました。家族からもう完全に孤立しているという感じでした。
いまは現金がいちばん信用できる。家族が冷たいから現金を持ってギャンブルに歩くのよ。
友達も少なく、交わらずに一人でポツンといるタイプ。7、8年前にパーティーでお見かけしましたが、言葉は交わしませんでした。
健康的な演歌歌手は多いけど、藤さんは肩に手を差し伸べないと崩れるような、何とかしないと、と思わせるタイプ。宣伝も握手会もないし、独特でしたね。影があって寂しそうな目、肩で歌う。女優さんが歌うような、全身で表現する人でした。
孤独を埋めるもうひとつのものが「電話」でした。藤さんは事情があって、携帯電話を持っていなかったんですが、公衆電話からよく電話をかけてくるんですよ。寂しかったんでしょうね。「会える人がいない」っていつも嘆いていました。昼夜問わずそれは十数分で終わることもあれば、3時間も4時間も話し続けていることがありました。
そんな電話は夫にもかかってきていた。機嫌よく話していたかと思えば、覚えのないことで理不尽な罵声を浴びせられたりもした。夫もヒカルも藤さんを心配していたんですが、彼女の中でふくらんだ被害妄想はとんでもなく大きくなっていて、とても一緒にはいられなかった。それで夫は、もともと藤さんのマネージャーをしていた男性にお願いし、6年前から彼女の行動を見ていてもらうようにしたんです。自殺したり、間違いを起こしたりしないための監視役みたいなものでした。藤さんもいい気持ちはしなかったでしょうが、話し相手がいないよりはましと思ったのかもしれません。
ずっと孤独
彼女を理解するには、この「孤独」をどのように理解するかです。
藤は20年間吐きまくりだと言っています。この証言はニューヨーク空港で捕まった直後の証言なので、20年というと、1986年前後からということになります。このときヒカルは3歳。自我の芽生えがあり、自己主張全開となる年齢です。つまり藤は、子育ての悩みを抱えていたのでしょう。そしてそれは、それ以降ずっと続く。治療が正しく行われていないようなので(パニック障害という誤診されるくらいなので)、この悩みは死ぬまで続いたのだと思います。どうしてそこまで強い子育ての悩みがあったのでしょうか。
そして絶え間のない頭痛と発熱。これは彼女に強い緊張があったことを示しています。その緊張を緩めるために頭痛が襲う。身体を休めろと、頭痛が襲う。発熱によって身体を緩めようとする。彼女のストレスはそこまで大きかったのでしょう。なぜにそのような大きなストレスを抱えたのか、そのストレスとは何であったのか。眠ることができないのは、常に不安におびえているからです。安心できない、こころが常に緊張している。そのような人はぐっすりと眠ることなどあり得ません。おそらく、藤の不眠は幼少期の頃から続いていたでしょう。
彼女のギャンブルはさみしさを埋め合わせるものにすぎませんでした。涙ぐみながら、ヒカルは冷たいと言います。これはヒカルに対しての愛情表現です。ヒカルのことを思うと涙が流れる。この「ヒカルは冷たい」という言葉は、ヒカルに対して愛着を向けていなければ言えない言葉です。彼女はヒカルを求めていた。つまりヒカルには愛着を向けていたのです。それはヒカルも同様でした。ヒカルも母を求めていた。ではなぜその愛着が相互交流しなかったのか。それはヒカルの問題というよりも、藤自身の生い立ちが原因だったのでしょう。
藤は友達も少なく孤立していました。おそらくずっと孤独だったのでしょう。これは幼少期に各地を転々として友達が作れなかったということではありません。彼女の「世界への理解の仕方」にかかわる問題です。彼女は周りの人々がすべて怖かったのでしょう。だから世界と交われない。つねに緊張している。その緊張は子育てで増幅します。彼女は、きっとヒカルのことも怖かったと思います。自分がどのように子育てしていいのか分からなかったと思います。人が怖いので、自分の子どもも怖いのです。愛着は抱いているのだが、怖い。このこころの状態を理解することが、藤を理解していくうえでは大切でしょう。
藤は人が怖いだけでなく、世界も怖かった。そんな対人恐怖を生きた人でした。
母親との関係
なぜ彼女は世界が怖かったのか。それは彼女は絶縁してから死ぬまで会わなかったという実母との関係によるものでしょう。藤には兄がいて、兄の話によると、2007年頃、藤は母親に3000万円を工面(くめん)して渡したといいます。ちょうどニューヨーク空港の事件のあとの話です。この事件のあと、彼女は注目されてしまったので、これまでのようにギャンブルはできなくなった。さびしさを埋めてくれるものがなくなったので、余計にさびしさのそばにいたのでしょう。この中で、母を求める気持ちも沸いてきた。これまで封印していた母への思慕が沸いてきた。この思慕は実は彼女の現実感の薄いファンタジー(幻想)、期待なのですが、彼女はそのファンタジーに従ったのだと思います。
母への思慕というのは、普通の人には普通にあります。ヒカルも藤への思慕が普通にあります。しかし、藤は、幼少期のころからその思慕を向ける相手から適切な応答を得られなかったのではないでしょうか。
藤の母親は盲目でした。これは想像でしかありませんが、盲目の母親が子どもの手を引きながら、旅から旅の生活をしながら稼いでいくのは、大変なことでしょう。子どもをあやすことも難しいでしょう。過酷な労働ゆえ、仕事が終わってからも子どもと交流を持つのは難しかったと思います。盲目の旅芸人が出産し子育てすること自体、ムリがあるように思います。旅先で藤の面倒をみてくれる女将(おかみ)さんはいたかもしれませんが、それは普通の母と子のような濃密な関係ではありません。
このような環境で育った子どもは母親から適切な応答を得られなかった可能性があります。盲目の旅芸人というのは、自分ひとりの身の回りのことだけでも大変です。そのような母をもった子ども(藤)は、もっと大変だったでしょう。普通の母のような交流を求めたいが、それができなかった。盲目の人が全員、それができないということではありません。藤の母親の場合、それができなかったということです。それは過酷な労働ということ以外に、母親の能力の限界もあったかと思います。藤はそのことについて、母親を責めることはいっさいなく、安心感のない生活を、子どもながらに自分で背負っていこうと決心していたのでしょう。
母親からの適切な応答については「社会的ネグレクト」をご覧ください。
子育てによって、吐くくらいの緊張が20年も続くことは、普通はありません。この身体症状は「原因不明」ということですので、心因によるものでしょう。経験的に、長期の身体疾患は、不安や怖れによることが多いようです。とすると、藤は、愛着関係というものを実母との間で築くことができなかった、その恐怖が根底にあるのだと思います。藤が幼少期から抱えてしまった、この根源的な欠損によって、彼女の運命は呪われたのです。この呪いへの癒しは、現実の母親との関係からは得ることはできません。だから、母と絶縁しても、藤が回復することはなかったのです。(絶縁ということじたい、母親との関係に執着しているからです。)
根源的な欠損とはC-PTSDのこと
この根源的な欠損を、精神科医のバリントは「基底欠損」と呼んでいます。トラウマ治療のハーマンは「C-PTSD(複雑性PTSDあるいは複合型PTSD)」と呼んでいます。
この根源的な欠損(恐怖)を抱えた人は、生きていくことが困難になります。そしてその困難さは就学前から現れるのです。適切な治療をしないと、ずっと引きずるものです。藤は、パニック障害などと誤診をされてしまっているくらいなので、様々な病名がついたことと思います。彼女の症状の本質は、複合性(あるいは複雑性)心的外傷後ストレス障害(C-PTSD)です。その治療が行われていなかったため、基底欠損とともに行き続けた彼女は、人間恐怖から人間不信になり、人嫌いになって、その生涯を自身の手で閉じたのでしょう。
藤のような根源的な恐怖を抱えた人は自殺の可能性が高い、ということはありません。むしろ、自殺をせずに、怖い世界の片隅でひっそりと厳しい人生を、ひとり生き延びている人のほうが多数でしょう。「死にたい」という深い訴えは常にあります。ずいぶん昔から、小学生の頃から、そのような気持ちを持って生きている人も多いです。ですが、そのような訴えを他人へ訴えることはしません。なぜなら、人間自体が怖いから。
小学生のうつ病というものが最近話題になることがありますが、あれはうつ病とは言えないのではないか。小学生というものは元来、うつ病になることはありません。どうしてかという理由をあえて探すとするなら、うつ病になることは大人の特権だからです。あなたは大人ですよ、という名誉の看板と引き換えにうつ病になるのです。
では、小学生のうつ病といわれる本態は何なのか。それは、藤のような根源的な恐怖を抱いていることによる抑うつ感です。精神医学的には、反応性アタッチメント障害と呼ばれるかもしれません。うつ病は、こころの中の葛藤が解消せずに悶々としている状態なので、根源的な恐怖におびえている状態とは違うのです。
そして、そのような根源的な恐怖を抱いている人は、その「死にたい」という訴えを用意周到に周囲に知られないように隠しています。カウンセリングに来談されたとしても、その訴えはなかなか現れてこないこともあります。それを隠して生き延びてきたので、そのスタイルを変えること自体が恐怖だからです。
マイルドに関わる
カウンセラーはそのこころの背景を察知しながら、それを暴くことなくカウンセリングを進めます。なぜなら、そのような人々にとっては、他人に暴かれることは死を意味するからです。そして本当に死んでしまうかもしれないからです。これまで生をつないできたのに、カウンセラーによって死を選ばされるかもしれない。カウンセラーがこのような人々に心理療法で介入するときは、このようなこころの働きを十分に理解していないといけません。責任は重大です。できるだけ時間をかけて、できるだけマイルドに、その人々のこころの深淵へ降りていく技術が必要なのです。
藤のような人が生き延びていくには、自分を防衛するモノが必要です。それは本当の自分を隠しておける着ぐるみのようなものだったりするのですが、ある人は、ガンダムのような強力なモビルスーツを身につけます。藤の場合は、芸能界での成功がその役割を担っていたのでしょう。お金を湯水のようにギャンブルに投入することも、精神的なモビルスーツだったのかもしれません。このような人々は、元来お金には興味がありません。必要なのは、お金を投入し続けるという行為なのです。ですから依存症というわけではありません。
しかしモビルスーツを手にいれても、もともとはひ弱な赤子のような自分です。それを薄々自覚しながら、一生懸命にモビルスーツを操って生きていくのも並大抵なことではありません。
「立川明日香」という生き方
私の住んでいる埼玉県新座市の市議会議員に、立川明日香というタレント議員がいました。議員にはなったけれど、新座市在住の実績が足りないということで当選無効となった人です。美人市議でも有名になったのでご存じの方もいらっしゃるでしょう。
立川は、生後すぐに乳児院へ預けられます。父は酒乱でDVを繰り返し、失踪しました。おそらく軽度の知的障害でしょう。母は統合失調症で入院しています。この両親の状態から分かることは、立川は被虐児として生まれた、ということです。父とも母とも通じない家で恐怖に身をさらしながら生まれてきたのです。生後すぐ乳児院へ預けられたのは不幸中の幸いでしたが、そこでの人間関係も希薄だったようです。普通だと寮母さんが母親がわりになって愛着を育めるのですが、彼女の居場所は、そのようなものが希薄だったのでしょう。それゆえ、被虐児としての恐怖がそのまま続いてしまった。藤と同じような基底欠損を持って人生を歩まざるを得なかった。
立川は奨学金で大学へ行き、アルバイトでお金を貯めてアメリカ留学します。そして「何かをやらなければ」という純粋な気持ちから政治の世界へ足を向けます。政治の世界はおそらく彼女にとってのモビルスーツの役割もあったのでしょう。
立川は結婚して子どもをもうけています。しかし、議員という職を失い、離婚して、シングルマザーとなり、選挙費用の返却まで求められているといいます。マスコミや社会は彼女をバッシングします。このあいだも生活のためか、テレビに出て、年配の女性の攻撃を一身に受けていました。出演している弁護士の女性は、「現在の養護施設は改善されている、(立川は)現場を知らない」と言う。カウンセラーの女性は、「(立川は)政治家には無理がある、もっと母親として、子どもとの生活を全うしなさい」と諭す。そこに穏やかなBGMが流れ、テレビはカウンセラーの話がさも正当なように演出する。弁護士も、カウンセラーも、テレビも、施設に暮らす子どもたちの気持ちや、被虐児について理解が全然足りません。
世の中は虐待について本当に理解しているか?
以前よりは少なくなりましたが、養護施設には体罰やいじめもあるという事実、職員の親密さの欠ける対応も少なからずあるという事実。また、彼女が政治家になるということは、社会活動をするということですので、自分の恐怖に打ち勝って社会へ出て行かないといけません。普通の人が感じるより、何倍も社会が怖いからです。社会への安心感がないのに社会へ出て行く。
これは、弁護士や学者や教師が政治に身を投じるのとは、わけが違うのです。多くの議員は、権威や収入、正義感から立候補しますが、彼女の場合は、そのようなありきたりの動機ではなかったのだと思います。怖い、怖いと言いながら、「えぃ」と身を投じた。しかしそこでバッシングを受けた。彼女は身のすくむ思いで、今を生きていると思います。
立川が議員を辞職した後、彼女の生い立ちが本になりました。その執筆者が、本を通じて、謝る気はないのかと聞くと、「ゼッタイに謝りません」ときっぱりと答えました。「なんだか、それだと社会に負けた感じがするんです」と語っています。
被虐児は社会に勝負などしません。なぜなら社会は恐怖以外のものではないからです。だから彼女が謝って社会に負けてしまうと、彼女は死ぬしかなくなるのです。彼女が社会に負けないように踏ん張っているのは、彼女がギリギリのところで生きようとしている、ということです。ここで謝ってしまうと、藤と同じように、飛び降りるしかなくなります。そうやって彼女は、身のすくむ思いをしながら自分が生きることで、自分の子どもを守っているのでしょう。
被虐児は自分の子どもを虐待はしません。むしろ強い愛着を持っています。立川も同じでしょう。彼女は、自分が愛着を寄せることのできる数少ない関係を維持するために、つまり自分の子どもを救うために、ギリギリのところで社会に、非常な恐怖を感じながら、謝らないということを選択しているのです。もう一度言わせていただくと、被虐児は社会へ対抗はしません。
テレビに出ていた方々は、被虐児のこころの動きを理解できていませんでした。公共の場は影響力が大きいので、発言する人はもっと現場を見て、勉強しないといけません。現場で何が起こっているのか、子ども目線に立って発言してほしいものです。しかし、この程度が、この世の中の被虐児理解なのです。これらの弁護士やカウンセラーと同じ意見を言いそうな人は、実は、たくさんいるように思います。そんな人々のために、下記を参照ください。