ストーカーとDV

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いつからかストーカー事件がニュースを賑わすようになりました。

ネット社会になって、SNSなどで自分の気持ちを発信できる機会が増えたのと、見ず知らずの者がそれに簡単に反応できる仕組みができて、人との距離が狭まったと誤解させるようなシステムが日常生活に浸透していることが遠因かと思います。人間関係として、実は、成立していないのに、そこにあたかも親密な関係があるかのように誤解させる、錯覚させる、そのようなネット社会のメリットであるが、同時にデメリットでもある仕組みによって、ストーカー事件は増殖しているように思います。私たちは、ネット社会を生きるものとして、メリットと同時にデメリットも考えていくネットリテラシーを学ぶ時期に来ているのでしょう。これは、義務教育で道徳教育をするよりも効果はあるのではないか。

このような私たちを取り巻く劇的な環境の変化はあるのですが、どういう人物がストーカーになるのかということは、以前から何ら変化はしていないと思います。それは発達障害になりやすくなったとか、そういう変化はないのと共通しています。ただストレスによってスイッチが入りやすくなっているということはあるでしょう。人物像は変わっていないが、スイッチが入りやすくなった。このストレスとは何か。それは前述した、SNSの普及によって引き起こされる弊害、つまり人間関係の誤解というストレスではないでしょうか。この記事では、ストーカーの人物像から対応方法まで、ストーカーについてまとめて見たいと思います。

ストーカーとは、つきまといをする人のこと。害を与えるために忍び寄る人と定義されます。

ストーカーとしてクローズアップされるのは男性が多い印象ですが、女性も同じようにストーカーになります。年齢もさまざまで、異性間だけでなく、同性間のストーカーもあります。警視庁の統計によると、20~30代の男性が最もストーカーになりやすいという調査結果があります。被害者との関係は、交際相手が最も多く、次に知人関係です。ストーカー行為の内容については、一番多いのは、自宅まで押し寄せて面会・交際を迫る、次につきまとい、3番目に連続メール・連続電話、という順番です。ストーカーについてはDVとほぼかぶります。DVと同じ線上にストーカー行為があると考えていいでしょう。

以下は、2014年4月28日の産経新聞からネット配信された記事です。

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過去100人、再犯なし「ストーカー病治療」は切り札か人権侵害か
ストーカー加害者治療制度の仕組み

NPO法人「性障害専門医療センター」(SOMEC、東京)代表理事を務める精神科医の福井裕輝氏(44)と向かい合った60代の男性評論家が突然、声を張り上げた。

「治療なんかで何ができる。俺はまともだ」

5年ほど前のこと。評論家は30代女性へのストーカー行為で執行猶予付き有罪判決を受け、弁護人によって半ば強引に治療に連れてこられていた。

治療は週1回、90分。福井氏が評論家の言い分を聞きながら「今後どうやって生活するのか」「奥さんとの関係をどう立て直すのか」と次々と質問を投げかけ、自身の立場や将来設計を考えるよう導いていく。当初、女性への恨みや苦しみを吐露していた評論家は、2カ月もすると「生活をやり直さないと…」と現実的な話題を口にした。4カ月後、生き生きとした表情が蘇り、声にも力が戻った。

「気持ちを話すことが安心感につながった。過去の自分の状態を距離を置いて眺められるようになった」

評論家はそう言い残し、姿を見せなくなった。

福井氏はこうした加害者の症状を「ストーカー病」と名付ける。適切に治療すれば大半は治るという。相手から交際や面会を拒絶され、繰り返し復縁を求める行為は誰にでも起こりうる。大半の人は時間の経過とともに心を整理し、行動も収まっていく。一方、ストーカー病になると、相手が苦しむ姿を見て自らの心の痛みを和らげる心理状態に陥る。福井氏はこれを「自己愛性パーソナリティー障害に起因する恨みの中毒症状」ととらえ、治療に取り組むのだ。

薬物は使わない。おおむね数カ月間の診察で現実を見つめるよう促し、ゆがんだ考え方や行動を変えさせる「認知行動療法」でアプローチする。これまで約100人を治療し、再犯はみられないという。

福井氏は「警察の警告や逮捕だけでは被害は防げない。根本的に解決するには治療が必要だ」と話す。警察庁はこうした意見を取り入れ、ストーカー規制法に基づき警告するなどした加害者に精神科医の診察を受けるよう促す試みを今年度から始めた。福井氏も担当し、警視庁管内で効果を検証する。数十人分の治療・研究費約1140万円を予算計上している。ただ、治療は強制でなく、あくまでも任意。欧米で行われているような強制治療の導入には、「人権」の壁が立ちはだかる。

そもそも警察に促されて診察を承諾する加害者には更生の兆候があり、改善がみられても自然だ。病理の深い人ほど治療への拒否反応は強く、強制的に入院させるしか治療の道はない。

ストーカー加害者のカウンセリングに取り組むNPO法人「ヒューマニティ」理事長の小早川明子さん(54)は自らの経験を踏まえ、「本当に治療が必要な加害者の多くが野に放たれている」と指摘し、強制治療が必要だと主張する。一方、杏林大の長谷川利夫教授(精神医療)は強制治療を「人権侵害だ」と批判し、警鐘を鳴らすのだ。「犯罪者予備軍という理由だけで拘束する『保安処分』につながる危険な考えだ。『ストーカー=病気』の図式にも疑問がある」

ストーカー規制法を軸とした処罰で対処してきた従来の方針からの転換といえる加害者治療。被害者を守る「切り札」になるか否かは、どこまで実効性を高められるかにかかっている。

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この記事に登場する精神科医・福井裕輝氏の書籍「ストーカー病」を参考にしながら話を進めていきましょう。

この記事にあるように、「警察に促されて診察を承諾する加害者には更生の兆候があり、改善がみられても自然だ」という指摘は妥当です。加害者プログラムに参加しようとする人は、その意思表示だけで治療の半分は終わっているのです。ですから、治る可能性が高いのです。福井氏は、誰でも治るように主張していますが、誰でも治るわけではないのです。治療に参加しようとする人に限って、治る可能性がある、ということなのです。ここを押さえておなかないと、幻想を追い求めることになります。2017年2月の段階では、ストーカー加害者に治療プログラムを勧めてそれに応じて受診したのは25%です。75%の人々は治療する必要はない、オレは悪くない、病気ではないと拒否している現実を直視しなければなりません。

□ストーカー人物像と対処

ストーカー行為をする人物像、ストーカー行為の対処方法について、順を追って見ていきましょう。まず指摘しておくべきことは、この福井氏の本には誤解がたくさん書かれているように思います。それくらいストーカーという病については分からないところがあるということですが、それよりも、ストーカー病という病名をつけたことによって、見えなくなった部分がたくさんあると考えたほうがよさそうです。ストーカー病というものは存在しない、そういう病名として捉えた矛盾によって誤解が生じてきたのです。読者に分かりやすいように「ストーカー病」と名前をつけた。新しい概念を導入したという勇気は買えますが、概念を提案するだけのデータの蓄積や分析がまだまだだったということでしょう。例えば、「虐待」は広く知られた言葉ですが、虐待病という造語は聞いたことがありません。これはなぜかというと「虐待」という独立した疾病が存在するわけではないというデータの蓄積があるからです。この本の誤解は、存在しないものを存在するかのように書かなければいけなかったところに無理が生じた結果の産物でしょう。あまりにも新しいところを狙いすぎた。ですから、ストーカーについては、従来の心理学・精神医学の延長線で考えたほうが良いのです。そのほうが対処方法も明確になりますし、心理的に治療する補助にもなるでしょう。そのほうが見立てがしっかりできるということです。ストーカー病と名付けられてしまうと、太平洋のど真ん中に船の上から放り込まれた感じがします。途方に暮れる。

福井氏は、ストーカーの特徴は「自分がつきまとうのは相手のせい」との被害感情を持ち、相手に拒絶されても「自分の良さを理解できないだけ」、「自分の良さを理解できれば受け入れられるはず」などと、自己中心的に解釈する点にある、と言っています。そして、身勝手な期待は現実のものとはなるはずがないので、被害感情が強まって、それが恨みに変わって、恨みが恨みを呼んで、「恨みの中毒症状」となった状態であると定義しています。

これはその通りでしょう。精神医学の言葉を借りれば、被害感が強まってそれが妄想化するということです。ですから基本病態は、なんらかの精神疾患があってそこに妄想が重なっている病理といえるのではないでしょうか。

ストーカー行為から殺人に発展する事件が絶えません。長崎ストーカー殺人事件、逗子ストーカー殺人事件、三鷹ストーカー殺人事件などです。これらの事件を未然に防げたかというと、それは難しいと福井氏は言います。これはある意味正しい、誠実な意見でしょう。出会ってから間もないときに適切な対応を取っていればストーカー事件には発展しなかったでしょうが、それは無理なことです。出会いの時は、この人がまさかストーカーになるなんて思いもよならいことでしょう。福井氏は、一度事件を起こしたストーカーを教育することで再犯を防ごうとします。いわゆる心理教育、つまり認知行動療法です。

これを加害者矯正プログラムと言いますが、これが効く人と効かない人がいることの考察は、この本にはありません。彼は100%治ると断言していますが、治る人を治療しているから治るのであって、治らない人はプログラム自体を受けないために治療には乗ってこない。だからいつも100%なのです。この本には、治療を受けなかった人、治療を途中で中断した人の話は出てきません。そこが認知行動療法の穴とも言えます。

福井氏によると、ストーカーは依存症かというと、そうではなく、依存症とストーカーの病理は脳内の違う部位の障害であるということですが、私の臨床経験上、治るストーカー行為は依存症的な側面(人間関係への依存)を大いに持っていると思います。治らないストーカー行為は依存症とは明確に切り離して考えて対応していかないといけないと思います。つまり後者では葛藤の処理というよりも、ケースワークが主体になります。治るストーカーへは葛藤の処理を中心としたカウンセリングで十分です。苦しみ、絶望、その中からの再生の話を聴き続けるのです。前述のストーカー評論家の、「恨みや苦しみを吐露していた評論家は、2カ月もすると生活をやり直さないと…と現実的な話題を口にした。4カ月後、生き生きとした表情が蘇り、声にも力が戻った。」彼は、自分の気持ちを傾聴される中で、苦しみから自己規範の崩壊をへて再生への道を辿ることができたのです。

一方、治らないストーカーへは軽度知的障害の方々への対応と同じです。つまりケースワークが主体となります。福井氏の推薦している認知行動療法などの心理療法が効くのは、治るストーカー行為についてです。治ることが確証されているため、依存症の治療と同じことをすれば治ります。治らないストーカー行為へは加害者矯正プログラムも効果はないでしょう。

さて、治るストーカーと治らないストーカーがあると言いました。

前者は、精神医学的には、依存、心的外傷(解離性障害)、自己愛性人格障害(過敏型)などをベースにしてそこに妄想が乗っかったストーカー行為です。後者は、脳機能の障害から来るストーカー行為、つまり、軽度知的障害を含む発達障害、反社会性人格障害、自己愛性人格障害(誇大型)、統合失調症、認知症などをベースにしてそこに妄想が乗っかった行為です。

治るストーカーは、傾聴をしてもらうことで、葛藤が解消されて、自分がとんでもないことをしていたことに気づいていくことができます。なんてことをしていたのだと、反省と罪悪感が出てくることで、ストーカー行為は完治します。

しかし治らないストーカーは葛藤として解消できないので、彼らを刺激しないようにカウンセリングすることでストーカーになる芽を発芽させないようにするしかありません。(私の知っている心理学では、そこまでしかできません。)ケースワークも、助言はなるべく控えます。助言は、いつも否定的なニュアンスが付きまとい、彼らを刺激してしまいますから、難しい対応になります。(ストーカーへの援助者はついつい助言したくなりますが、プロのカウンセラーとしては、ここはじっとガマンです。)脳の障害ゆえに教育しても完治することはないので、長期に渡る経過観察が必要となってくるでしょう。司法から離れた彼らをそのままにしておくことは危険ですので、司法と地域行政が一丸となった長期的な観察とサポートが必要となるでしょう。治らないストーカーがあるのだ。それは司法が介入していかないと再犯を繰り返すのだ、ということを知っておくべきでしょう。

福井氏は、ストーカー行為の状態から4つの区分をしています。執着型、一方型、求愛型、破壊型です。

執着型は、元恋人や配偶者、親子、同僚、仕事の取り引き相手、医師と患者、教師と生徒など、相当な年月に渡って築かれてきた親密な関係が崩れたときにストーカー化するものと定義しています。三鷹や逗子のストーカー殺人事件が該当するようです。自己愛性人格障害の人がこのタイプのストーカーになる可能性があるといいます。

私の臨床経験では、ストーカーには、依存、心的外傷、解離性障害、自己愛性人格障害(過敏型)、自己愛性人格障害(誇大型)、軽度知的障害を含む発達障害などと診断されている方々が含まれると思います。つまりストーカーの病理には、治るストーカーと治らないストーカーが混在しているのです。

ここで福井氏は、心の安全基地を持たなかった人が自己愛性人格障害になるといいます。安全基地がない人とは、愛着対象を持たなかった人です。けれど臨床現場では自己愛に問題のある人で愛着対象を持たなかった人とは、コフートが言う、過敏性自己愛に問題にある人です。DSM診断などの精神医学診断で定義されている自己愛性人格障害とは、誇大型(オレ様型)の自己愛問題をひきずっている人で、過敏性自己愛の人は該当しません。ここに福井氏の主張のほころびがあります。つまりDSM診断による自己愛性人格障害とは、心の安全基地を持っていないわけでなく、「持っている」からゆえに誇大型自己愛となり、精神年齢が幼稚な状態でストップした人々です。これらの人々は、治りにくいストーカーになりやすい。逆説的ですが、心の安全基地のない人は、基本的には、ストーカーにはならなし、たとえストーカーのようになったとしても、それは適切なカウンセリングを受けることで治るということです。

この本には自己愛の問題にかなりのページが割かれているので、福井氏はストーカーの本質は幼稚な精神構造にあると達観されているのだとは思いますが、そこがきちんと書かれていないので、混乱を生む結果となっているのです。どうして奥歯にモノが挟まったような書き方しかできなかったかというと、福井氏はストーカー病は認知行動療法で100%完治するという理想論を書こうとしている節があります。しかし、ストーカー病は治るものあれば、治らないものもある。認知行動療法が効くのはその治るストーカーの中の、それも依存症を基盤としたほんの一部にすぎないのです。こういうことを書けなかったから、中途半端な本になってしまったのでしょう。ストーカーのこころの構造として存在する「幼稚な精神構造」を治すのはとても難しいのです。治らないものもあることを知らせること、その場合どのへんに不時着地点を持っていくかを知らせることが、被害者や加害者への誠実な態度なのではないかと思います。(加害者への診断の告知は慎重に慎重を重ねなければなりません。むしろ告知はしないほうがいいかもしれない。)

一方型は、親密な関係にはないが、一方的に恐怖を与えたい欲求からくるストーカー行為と定義しています。アイドルへの一方的な恋愛感情から事件を起こすケースなどです。統合失調症や妄想性障害が基本病理としてあると福井氏は書いています。この種の恋愛妄想は、薬物療法や心理療法で消失するといいます。統合失調症スペクトラムの中の病理という位置づけなので、第一選択肢は薬物療法ということになるのでしょう。この一方型は深刻になるケースは少ないようです。ストーカー行為を起こす前に統合失調症の病理を出してくるからです。ただ、この場合は統合失調症の治療になりますので、こちらもそう簡単には行きません。薬物を使いながら一生見ていく必要があります。深刻にならない代わりに、一生付き合っていかなければならない、ということでしょうか。

求愛型は、少し親密な関係にあるときに起きるストーカー行為です。発達障害傾向のある人がこのストーカー行為をすると福井氏は言っています。発達障害といわずになぜ「発達障害傾向」なのでしょうか。言い切る自信がないためというか、発達障害自体、まだまだ除外診断をする医師が多いのでこのような言い方になってしまったのかもしれません。除外診断とは、症状はこれでもない、あれでもないと除外していって最後に残ったのはコレだから、というように確定診断する方法です。福井氏はここでは言及していませんが、発達障害でも、軽度知的障害(特にIQ80代の境界知能域)からくるストーカー行為がこの求愛型の半分以上を占めているものと私は推測しています。

破壊型は、自分の性的欲求を満たすための相手へむけてストーカー行為を起こす場合です。相手の気持ちなどは一切関係なく自分の感情を一方的に押し付けて相手を支配しようとするパターンです。基本病理は、サイコパスつまり反社会性人格障害です。脳の障害からくる人格障害です。共感というものが一切ない、暴力が支配した人格障害です。ストーカー行為ではありませんが、反社会性人格障害の人が起こす事件は多々あります。大阪の池田小学校の宅間が起こした事件や、記憶に新しいところでは、2014年夏の長崎の女子高生の友人殺害事件などがあります。長崎の事件は、ある種の病理からの連続体(スペクトラム)としての反社会性人格障害(行為障害)と見ているのですが、その研究はまだ途上のものなので、ここで論じることは止めておきます。お聞きになりたい方は、いつかお会いしたときに聞いてください。オフレコでお話します。愛知県の名大の女子学生が起こした殺人事件や放火、同級生へのタリウム投与も同じ病態によるものです。

一方型も破滅型もストーカー行為に発展する以前にもっと深刻な事件を起こすので、ストーカー事例としてはあがって来にくいものだと福井氏は語っていますが、その指摘は妥当であると思います。統合失調症や反社会性人格障害の人は、ストーカーやクレーマー行為には罪悪感を感じないので、特定の人物への妄想状態へ入る前に、もっと事件性の高い行動をとっているはずです。

そうなってくるとストーカー行為として問題になるのは、執着型と求愛型、つまり精神病理でいうと、依存、心的外傷、自己愛の問題か軽度知的障害(境界知能域)か、ということになります。そして、依存、心的外傷、自己愛(過敏性)の人は適切なカウンセリングで治りますが、自己愛(誇大型)や軽度知的障害(境界知能域)は治りません。自己愛の問題は治るのでは?という問いはあるでしょう。確かに過敏型自己愛は治りますが、誇大型自己愛は、精神構造がもともと幼稚であるため、治ることはほぼありません。そしてDSMという精神病理の診断基準によると自己愛性人格障害は誇大型に限って記述されているので、DSMから自己愛の診断をした場合、「治らない」ということになってしまいますが、実は、過敏性の自己愛、つまりコフートのいう心の安全基地が希薄な人は治るのです。でも治らないなら困るではないか、というのももっともです。治らないけれど緩和される、とは言えます。けれど、その程度です。再発は必ずあります。治らないストーカーの場合、被害者は、再発の可能性はあることを肝に銘じて生活する、しんどいですけれど。加害者への観察は継続する。その辺りでバランスを取るというのが現実的なストーカー対策ではないかと思います。

これはDVの問題も、ストーカー問題と同じです。DV加害者の中でも、誇大性自己愛の問題や軽度知的障害、反社会性人格障害をひきずっているような、脳の障害からくるDV行為は治りません。

□ストーカーの治療

私の経験から考えると、治るストーカー行為(DV行為含む)とは、依存、心的外傷、解離性障害、自己愛性人格障害(過敏型)から来る行為です。これらは、もともとその行為はストーカー行為やDV行為ではなかったということです。何かの妄想に一時的に囚われていたとみなすのが妥当です。継続性、支配性が強くない場合です。ストーカー行為ではないから治るのです。治るストーカー行為をしている人は、妄想に刈り取られているため、なかなか落ち着いて考えることはできませんが、その妄想から離れているときが日常生活の中には必ずあり、そのときは自責感がやってきています。相手への罪悪感があるものです。こういう人は、治ります。ここを見定めるためには、ストーカー加害者へのカウンセリングが欠かせません。その人の語る内容、語る口調、態度、視線、もの思いにふける表情、それらの情報をもとに総合的に判断することです。知能検査は必要ですが、チェックシートや心理テストをするだけでは引っかかってこないところです。そのためにカウンセリングが必要なのです。傾聴しつつ、その人の心理構造を見立てていくのです。

例えば、知能検査で境界知能という結果が出たとしても、その人の生育上、虐待が疑われる場合は、まず心的外傷の有無を見立てる必要があります。虐待があっても心的外傷がない場合は、確かに境界知能と診断できるでしょう、つまり治らないストーカーです。けれど、虐待の心的外傷が存在している場合は、境界知能と診断を下すことは保留しなければなりません。心的外傷により処理能力が低下している場合もあるし、勉強の機会を奪われたことによる言語性IQの低下もあり得るからです。この場合、治療を続けることで治っていきます。

恐怖を抱いている被害者からみたら、ストーカー行為やDV行為は皆同じのように見えますが、病理的な視点から診断したら違うということです。こういう捉え方は、虐待と同じ捉え方です。虐待の場合は、殴っていればすべて虐待であるとは言えません。虐待かどうかの判定には、継続性と重症度が考慮されます。解離しながらフラッシュバックの中で昔の記憶がよみがえり殴ってしまう母親がいるわけです。そういう母親は自分が虐待をしているのではという罪悪感を必ず持ちます。それは虐待とは言えません。同じようにストーカー行為やDV行為もも同じで、継続性と支配度が重要です。その査定によって、その行為がストーカーやDVなのかそうではないのかを明確にして、どのような治療が妥当なのかの判断を適切にしないと、治らないストーカーを延々と認知行動療法で治そうとして、逆に悪化させてさらなる犯罪行為に誘導してしまうこともあり得るわけです。ですから治療者による加害者の見立てというのは重要なのです。どんな治療もそうですが、まずは正しい見立てが必ずあって、そこからどうやって治療していこうかという治療方針が立てられます。

さて、治るストーカーであると分かった場合は、以下の対応が妥当でしょう。

福井氏のいう、自分の意思をまず伝えることです。

(1)愛情も好意もない。
(2)交際するつもりはない。
(3)電話やメールのつきまといは迷惑である。恐怖でもある。
(4)ただちに一切の行為をやめてほしい。

これを1人で相手に対峙して伝える。喫茶店や人目がある場所で伝える。

福井氏は意思を伝えるとき第三者に入ってもらうことは、相手の妄想を刺激して良くない結果をもたらすと指摘しています。しかし、これは「治るストーカー」の場合は有効でしょうが、「治らないストーカー」には何の効果もないでしょう。妄想が急に消えることへの期待はほとんどできません。しかし、治るストーカーかどうかということは、経験がない人には見分けがつかないので、1人で会うことは避けたほうが良いと思います。その場合、以下の、治らないストーカーへの対応になります。

治らないストーカーの場合は、むしろ、複数、3人以上で会うことです。つまり、つきまといに対する問題についてはチーム(家族)で対応しますという姿勢を見せるのです。そして、仲介役が中心に座って、被害者を脇へ置く。訴訟になった場合のお互いの利益のために録音をしますと、了解をとる。話し合いの前に、録音機をテーブルの中央に置きます。そして、まずは仲介役が、上の4つのことを伝えたあと黙ります。傾聴に入ります。相手の言うことに十分に耳を傾ける。相手の要求を十分に確認する。相手を否定することなく口をはさむことなく冷静に相手の理不尽な話しに耳を傾けることができる人、仲介役は傾聴する技術をもった人でなければなりません。最小限の発言にとどめます。要求に応じて謝罪文などの提出はしないことです。

このへんはストーカー行為への対応というよりも、暴力やクレーマーへの一般的対応と同じです。

この話し合いと同時に被害者は、LINE、フェイスブック、twitterなどのSNSから脱会し、自分から何かを発信することを止めます。

それでもストーカー行為が止まらない場合は、「治らないストーカー」である可能性が強いので、住所変更や引越しなども視野に入れるべきでしょう。数年は、身を隠して生きる覚悟をしてください。そしてペンネームでもあっても、ネットへの投稿は一切しない。警察にこれまでのやりとりの資料を提出して、動いてもらうことになります。

最後に福井氏の本の雑感を書いて終わりにします。

この手の本でよくありがちなのは、有名人を出して、この人はこの病気だった!という、読者を驚かせるやり口です。この手法はたぶん発達障害の書籍が先陣を切ったのではないでしょうか。エジソンはADHDだったとか、ビルゲイツはアスペルガーだったとか。エジソンなどは、ADHDの団体の名前にまで祭り上げられてしまいました。こういうやり方はどうなのか、と思います。エジソンがADHDだったかどうか、私は疑わしいと思っています。エジソンがADHDだったら、ADHDの少年たちの希望になるだろう、そのような騙し討ちのような発想が根底にあります。ADHDだったとしたら、あのような数々の発明はできないでしょう。なぜならADHDは創造的な人々ではありますが、知的な問題を少なからず引きずっていることが多いからです。山下清にはなれるかもしれませんがエジソンにはなれない。もし知的な問題のない場合は、ADHDとは診断しないほうが無難でしょう。それこそADHDと診断するよりは、「個性」と診断したほうがいいでしょう。

この本はそのような手法を踏襲し、野口英世がストーカーとして登場します。このような話にでくわしたら、商品を買わせるためのサクラとして読んだほうがいいです。野口英世の場合はストーカーという部類に入れるよりは、ちゃんと「自己愛の問題があった」と言えばいいはずです。そういえば愛着障害で有名になった岡田氏の本も似たような記述がたくさん出てきますね。

ここで紹介される弁証法行動療法は果たしてストーカー対策の決め手となるのでしょうか。これも福井氏の所属施設のPR要素が強いように思います。弁証法行動療法は認知行動療法の一つの教育的メソッドですが、認知行動療法が利くのは、精神年齢が大人に達している普通の人々に対してです。認知行動療法は、10代には利かないのは、医療関係者の間ではよく知られた事実です。なぜなら思春期より手前の人々は、精神構造が、自己内葛藤のできるレベルに達していないからです。認知のゆがみというのは、他人と自分とを比較する、自己内葛藤の話ですので、精神的に大人に達していないとできない話なのです。ストーカーになる人々は、もともと精神的には幼い人々、学童期以下の人々ですので認知行動療法がどこまで利用できるかは疑問です。

弁証法行動療法は最近ブームですが、マインドフルネスがああいう形で、技法としてのみ取り扱われているようでは、効果薄といわざると得ません。マインドフルネス認知療法も然りです。マインドフルネスというものは瞑想技法として取り扱いやすいものですが、技法というよりも、相談者と治療者との間の「態度」あるいはムードとして取り扱うべきものでしょう。そのことも熟練した認知療法家は薄々感じている人もいるのですが、それを言うと認知療法自体が崩れてしまうため、自分の認知療法家というアイデンティティを保持するために、不自由な認知療法を続けている人々もいるようです。特に弁証法が出てきてから悩みが大きくなったようです。弁証法は認知療法として発展すべきでなかった、どちらかというとユング派にやってもらいたかったというのが私の意見です。すでにプロセスワーク(POP)のミンデルはそれをやっているのかもしれませんが。(業界ネタでした。)

この本には誤診の記述が多いですが、最たるものは、小学校6年の女子の事例です。初診で統合失調症の可能性を考える時点でまずおかしい。小学生で幻覚の話が出たら、まずは知的な問題を、次に解離や虐待を思い浮かべないと、治療者としてマズイのではないかと思います。福井氏は半年かかって父親からの性虐待の話を聞くことになりますが、この展開は遅すぎるし、それよりも父母にそれを問い正すという最悪のミスを犯しています。とても下手な治療です。結局、親の反発をくらい、子どもが親と治療者の両方に気を使わないといけなくなり、治療が途中で中断してしまっています。この治療は、いったいどうなのかと思います。

この治療ミスを活動の原点、つまり自身のストーカー加害者更正としていますが、治療ミスについての反省がないように思います。性虐待する親は更正できないという重大なことに気づいていません。更生できないならどのようなアプローチを両親にすれば良かったのか、その視点が全くありません。それがないから、どんなストーカーでも治るものだという誤解を生んでしまうのでしょう。自分の失敗を表現する勇気は買いますが、そのようなことをする前にちゃんとミスを検討し歯止めをかけのが先でしょう。最期は辛口になりました。

集団ストーカーという妄想的な訴えもありますが、これはここの論旨からずれますので、また記事を改めて書きたいと思います。

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