人は愛着を切って死んでいく。残された人は長い喪の作業に赴く。

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死んでいく人が生きている人への愛着を切るということが分かっていると、残された人は死んでいく人への感謝の気持ちが大きくなるようです。そして穏やかにその死を受け入れられるようです。

花束を君に、宇多田ヒカル

宇多田ヒカルの「花束を君に」は亡くなった母への思慕を歌ったものです。ヒカルには藤圭子との様々な葛藤はありましたが、それは二人の関係が、愛着で結ばれていたからに他なりません。ですから、このような詩になるのです。

それだけ強い愛着で結ばれているゆえに母の死の喪失感は言葉では言い表せないものになります。これが普通の愛着関係です。

愛着を切って死んでいく

さて、以前お話ししたように、人が死ぬときは、生きている世界への愛着を切って死んでいきます。その世界に執着しないように。そうやって執着しなくなるから成仏できるのです。これは実際に検証はできませんが、エリクソンの心理発達段階説によると、どうもそういうシステムになっているようです。

エリクソンを参照すると、人が生まれると、養育者と愛着関係を結びます。基本的信頼感です。そして人生の荒波を乗り切って、死ぬ時期になると、この基本的信頼感=愛着を切っていく作業に入るといいます。それが赤ちゃん返りに見えることもあるでしょう。でも、そうしないと世界へ未練が残ることになるのです。

この作業は、死んでゆくものだけが行える作業であり、生きている人間はできません。生きている人間は愛着が必要なので、そんなことは原則的にムリなのです。愛着を切ることなんて。ですから、喪の作業が必要になってきます。

喪の作業とは、死んだ人を悼む作業です。一番初めに行われるのが、通夜であり葬儀です。そして初七日、四十九日、三回忌、七回忌などを通して、死んだものへの愛着をだんだんと弱めていくわけです。これが残された人々が辿る道です。

愛着が切られたことが分かった、残された人

今回の話はそれとは少し違う話です。

Aさんにとってとても大事な友人Bが亡くなりました。その場には、他の友人もたくさんいて、友人Bの死を前に打ちひしがれています。これは当然の反応ですね。そして時間をかけてその悼みをほどいていくわけです。思い出も一緒に供養していくのです。喪の作業ですね。時間とともに癒されていくのです。

その中で、Aさんは違った感覚だったといいます。他の残された友人たちは食欲も落ちて、落胆し、涙が止まりません。しかしAさんは非常に穏やかだったといいます。この気持ちは何だろう。死んでいった人のことを思うと、暖かい、穏やかな気持ちになる。こんな気持ちは皆には言えません。

これは何が起きていたのでしょうか。

死んでいく友人Bは、生きている人々への愛着を切っていきます。当然Aさんへの愛着も切ります。生きている人々は死んでいく人Bへの愛着は切れません。つながったままです。この世界で生きるには愛着なしでは生きられませんから。しかし友人Bは死んでいく。死んでゆく人Bは愛着を切ったので安心して死んでいけます。残された人々はとてもつらい。打ちひしがれています。

この人Aさんは、友人が愛着を切っていることが分かっていたといいます。それがなんとなく分かっていた。どうしてそれが分かっていたのかは、よく分かりません。友人Bとの関係が深かったからでしょうか。Aさんは、友人が愛着を切ったことを目撃していたので、穏やかだったのです。

Aさんに喪の作業がないのか?というと、そういうわけではないでしょう。しかし、他の友人とは違った体験をしたというのは事実だったのでしょう。

安全な空間の中で傾聴され、自由に葛藤を話して整理したいときは、ソレア心理カウンセリングセンターへ。

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