カウンセリングの中で悟りを開くことがあるのでしょうか。それは気づきとかアウェアネスとかと何か違うのでしょうか。そして悟りと地獄の関係は?
悟り
悟り。カウンセリングとは関係ない話題かもしれません。が、何かと触れる近接領域かもしれませんので、少しだけ明確になればと思って、この記事を書いています。
大乗仏教の悟り体験を集めた本を読んだ方がいました。仏教、キリスト教、無宗教の人も、悟りを開くことができ、共通のパターンがいつくかあるそうです。大きく共通しているのは、自我が高揚してくる体験ではなく、自我が砕かれる体験とのことです。
高揚してくる感じはスピリチュアルで話されることかと思いますが、ワンネスとか、どうも悟りは、そういうものではないようです。
自我が砕かれている中で歓びが浮上してくるようです。
気づきとかアウェアネスはどうなのでしょうか。これはカウンセリングでよく体験するかと思います。それらは小さな悟りといえるのかもしれませんが、それがいくつか集まれば、本家本元の悟りに至るか?と言えば、そうではなさそうです。それらには自我が砕かれるまではいかないのかもしれません。
自我という大きな得たいの知れないものを出してくると、そこで思考は停止してしまいがちになります。水戸黄門の印籠のようなものです。ですから、自我ではなく、ここはカウンセリング的には、葛藤という言葉に変えて考えたほうがいいのかもしれませんね。
でも、これでは悟りから遠ざかるようにも思います。つまりは、悟りというのは、カウンセリング的にみたらどうでもいい代物といってもいいのかもしれません。
それよりももっと重要なことがあります。それは悟りではなく、地獄ということです。
地獄
地獄でエンマ大王が罪人を裁くわけですが、人を裁く罪をエンマ大王も引き受けて、苦闘しながら罪人を裁いているらしいのです。エンマ大王も非常に人間らしい生き物なのでしょう。
ある神父さんの話です。その神父さんの生い立ちに触れているとき、地獄を見たかという質問を受けて、神父さんは「地獄を見た」と答えたそうです。
昔、精神科医の斉藤学先生が研修で話されていたことです。彼の学生時代、20代前半の話です。戦後まもなくの頃でしょうか。山梨へ向かっている途中で、山の上のほうを竜が飛んでいる姿を見たそうです。そして「竜の腹を見た」というのです。この竜の腹を見るということは、絶体絶命、地獄への扉が開いたということです。斉藤先生も、あのとき自分の自我が崩壊する地獄へ突っ込んでいっていたのでしょうか。
地獄を見ること。これが悟りということの一側面ではないかと思います。悟りにフリガナをつけると、ジゴクとも、Hell とも付けられそうです。
カウンセリングの場では多くの地獄が語られます。たくさんの地獄を語っていく中でその先にあるとすると、悟りがあるのでしょうか。よく分かりません。悟りがあろうがなかろうが、カウンセラーはただ、その地獄を聴き続けるのです。
マインドフルネスの故郷であるタオ(道教)の【 陰陽 】では、地獄も悟りもメリーゴーランドのように、同心円状をクルクルと回転しつづけます。
地獄の黙示録
コッポラの1970年代の映画です。スターウォーズや未知との遭遇に華やいでいた頃です。マーロンブランドがベトナムで彼の国を作るような話でした。あの地獄は悟りだったのでしょうか。
地獄を生きていると思うときは、ソレア心理カウンセリングセンターへ。
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