ダメンズと天使が同居する太宰治は青春小説としての輝きを失っていない

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お恥ずかしい話ではありますが、私は太宰治を読んだことがないのです。

太宰治は全共闘世代にとってはバイブルのようなものでした。全共闘とは1960年代後半の学生運動を主導した集団です。当時の私は小学生~中学生にかけての時期で、それらの人々に反感をもっていたので、太宰は読まないと決めたのでした。

では左翼か?というと定かではありません。三島由紀夫率いる右翼にも反感がありました。極左かと問われれば、革マルにも中核派にも距離を置いていたありさまです。政治的にはそんな感じですが、そういえば私は、三島も読んでなかったのです。

何か彼らのテイストが私に合わなかったのでしょう。そしてそれはその後もずっと続くことになります。

私の青春と呼べる時代は1970年代で、全共闘のその後の世代です。あさま山荘事件後、学生運動が急速に衰えていった時代です。三無主義と呼ばれていました。無気力、無関心、無責任のしらけ世代です。これに、無感動と無作法を加えた五無主義という呼ばれ方もあったようです。

音楽の世界では、井上陽水や吉田拓郎が歌っていました。私はいまだに太宰を語ることはできませんが、吉田拓郎は、今はまだ人生を語らず、というアルバムをリリースします。ここにはペニーレインでバーボンとか、シンシアとか、襟裳岬が収録されています。名盤でしょう。

太宰を読まないなら何を?と言われれば、アップダイク、サリンジャー、ケルアックくらいです。太宰は読まないがアメリカ文学は読んでいたのですね。太宰の代わりという位置づけだったのかもしれません、今から思うと。そして、私の影の中にいる作家は、稲垣足穂とアンデルセンとトーベヤンソンでした。

太宰の人間失格は、主人公が放蕩息子=ダメンズの典型で、最後に自殺してしまう。その後の回想で、あの子は天使だという人が現れます。放蕩と天使、この二つの視点を太宰は見ていたわけです。この葛藤は、もっと大きくメタ認知的に見ると青春小説と言えそうですが、私は読んでいませんので、まぁ語れないのです。

青春小説は読む時期があるでしょう?太宰とかサリンジャーは10代に読む小説でしょう。ですから今から読んでも時すでに遅しですが、一生に一度、死ぬまでには、読んでみてもいいのかもしれません。

太宰は、国語の教科書の走れメロスしか知らない、食わず嫌いの小説家だったわけです。皆さんも、そういう作家がおありなら、このYouTubeのコメント欄にコメントいただき、食わず嫌い自慢をしてください。(笑)

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