治療が進むと、見立ての影が薄くなります。治療者も相談者も、双方、もうそれに囚われることはなくなります。
治療者は、その状態に、人間の歓喜を覚えることもあります。濃密な関係性の中で、相談者の才能が開花していく感じです。自己肯定感も高まっていきます。ゴーギャンの南国の絵のような、うっそうと茂った生命力溢れる状態です。
鬱とは、なんともうつうつとした感じですが、この言葉の意味の一つに、うっそうと生い茂った様という意味があります。そのような濃密さです。うつが反転するわけです。うつの反転は躁ではありません。躁だと、それはまだ病気です。うつが反転しても、うつは鬱。この状態は病気ではありません。うつが鬱になった状態。濃密な生命エネルギーで溢れ返る状態です。
うつが反転すると躁になるのではありません。うつが反転して鬱になるのです。エネルギーが溢れ返る状態になる。これが治癒です。
以前、怒りの属性が取れるとやる気が出てくるという話をしましたが、それがもっと開花したような感じです。平和なレイヤーが増えた気がするともおっしゃいます。
そこまでくると見立ては吹っ飛ぶだけです。いつだって捨ててもいいようになる。そこまでくると治療はかなり進んだことになります。
上の説明では、物事には2つの違った層(側面)があることを説明するために「うつ」という言葉を援用しましたが、これは鬱という漢字が持っている2つの状態(特性)が、その説明に適しているからうつを例に取ったまでです。一般的にうつは、エネルギーのない状態と捉えがちですので。この動画をアップしてから読者の方から、この話の例はうつのクライエントかと質問がありましたので、補足しておきます。
私の場合は、うつという用語は精神医学的な色合いが強くなるので、そのような見立て(診断と言ったほうがいいでしょうか)はあまりしません。したとしても、私の見立ての中では副次的な扱いになります。
うつという言葉は広く理解しやすいものなので、相談者には、話の流れでうつという言葉を使うかもしれません。昔から抑うつ的に生活されてきましたね、とか。しかし、それは核心的な見立てとして伝えているわけではありません。見立てはあくまでも心理学的なもので、それをそのまま伝えても相談者には理解しにくいでしょう。それは治療者がこころの中に保持していればいいのです。
それが幼少期からの抑うつ気分であるなら、それは器質的なものなのか、それとも心理的なものなのか、心理的なものならどういう事情がそこにはあるのか。どういう人間関係でそうなっていったのか。そういう見立てが治療を進める上では有用になってくるのでしょう。
自分でいうのもなんですが、心理の仕事をやっていると、心理学的な見立てというものは奥が深いなあと思います。DSM-5などの操作的な精神医学の診断とは、ちょっと違うのです。