宇多田ヒカルが惹かれる「置いていかれたモノ」は自身を重ね合わせているのでしょう。そしてそこには、母親と交歓したくてもできなかった、互いに呼び合ったがすれ違ってしまったタマシイの彷徨いがあるのでしょう。
マツコ・デラックスと宇多田ヒカル
「マツコの知らない世界」というTV番組があります。一つのことに集中している(オタクな)人がでる番組ですが、そこに「落ちているモノに執着している人」というカテゴリーで、宇多田ヒカルが出演したという話を聞きました。
本来あるべき場所でない所に置いていかれたモノ
これは宇多田ヒカルが表現した言葉です。普通インスタグラムへアップする写真は自分の食べたモノや行ったところなど、自己主張満載の写真ですが、ヒカルの写真は、普通の人のそれとはちょっと変わっていて、落ちているものへ共感してシャッターを切るのです。
例えば、道に落ちている手袋。本来、そこに在るはずのないモノを投稿するのです。そういうものに惹かれるのですね。
彼女は、コンサートなどで歌っているときに、なぜこのステージに立って歌っているのだろうと感じることがあるそうです。ここは私の本来の場所ではないのではないかと思いながら歌っているらしいのです。
本来あるべき場所でないところに自分は居るという感覚ですね。
また彼女は、悲しいものに惹かれる。病気で寝ている人の写真を撮ったりします。これは当然、怒られるわけですが、寝ている人を見ていると、愛おしくなって可哀想と思って写真を撮るのです。
自分の母親、自殺した藤圭子へ感じている感覚そのものではないかと思います。深く母を愛していたことからくる感覚ではないでしょうか。
そして、ヒカルは置いていかれたわけです。ヒカルを置いて藤は自殺してしまった。藤はヒカルへ愛情をかけますがヒカルは反発する。ヒカルも藤へ愛情を向けるのですが藤が上手く受け取れない。そして両者の愛情は、すれ違ってうまく出会えない。ブレるわけです。お互いの愛情は虚空の中で彷徨っていく。その悲しみをヒカルは、置いていかれたモノとして共感するのでしょう。
彷徨うタマシイのかなしみ
この母子の2つの彷徨えるタマシイの持つかなしみを、ヒカルは多くの楽曲で歌います。自分は悲しい場所にずっと留まっているからかなしみへ惹かれはするのですが、それ以上に、母の悲しみをヒカルは引き受けているのです。
藤圭子は被虐児です。宇多田ヒカルは被虐児II世、被虐児ではありません。ヒカルは藤の悲しみを引き受けているが、被虐児ではない。被虐児ではないが、ちょっと普通っぽくない関係の母と子。そういうかなしみを、本来ある場所にないモノへ、同じように感じているのでしょう。
被虐児II世というのは、ほぼ普通の人なのですが、それでもちょっとどこかに母親との間にズレがある。この僅かなズレによって苦しんでいる人々は、私の経験上、案外多いのです。ちょっと特異な摂食障害で通ってくる人、生存についてちょっと特異な考えに支配されている人、若くして私生児を産む母親、等。
このようなかなしみによってヒカルの作品は出来上がっているのでしょう。
ヒカルの子
マツコは、ヒカルに女の子を産んで欲しいと求めます。ヒカルには男の子がいるのですが、マツコは、藤圭子ーヒカルのDNAを伝えてほしいと、女の子を望んだのです。それに対して、ヒカルはサッとかわし、子どもは大変だから一人で良いと言うのです。
女の子を産むと、藤ーヒカルのようなかなしい思いをさせるかもしれないという、ヒカルの親ごころと思いますが、つまり藤ーヒカルは互いに呼び合ったが、絆で結びつく前にブレた関係のままだった。自分の子にはこの彷徨える関係を味わわせたくなかったのでしょう。
しかし、ヒカルは被虐児ではないので、女の子が生まれても、藤ーヒカルのような関係にはなりません。安心して女の子を産んで、藤ーヒカルのDNAを続けてほしいというのは私の勝手な思いです。とにかく藤の歌声は凄かった。当時小学生だった私にさえも、人生を深みをドーンと感じさせて過ぎていきました。
大人はこうなのか、なんかそういう思いで聴いていたようです。
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