【緩いつながり】ドウシヨウモナイさみしさに包まれたときの解決策

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忘れてしまいたい事や
どうしようもない寂しさに
包まれた時に男は
酒を飲むのでしょう。

と歌ったのは河島英五の「酒と泪と男と女」です。

どうしようもなく寂しいとき男は酒を飲み、女は泣くという話です。まあ、そういうこともあるかもしれませんが、今日は、男女関係なく、どうしようもなくさみしいときどうするかという話です。

これは人によって色々と経験してきていると思いますので、私がとやかく言うべき問題ではありません。各人の対処療法でどうぞ、というやつです。余計なことを、さみしい人に言っても何の効果もありませんから。

ですからこの話は私の視点ということで読んでください。動画もそうですね。

さみしいときというのは、人恋しいときとも同じ意味でしょうか。それなら人を求めにいくでしょう。しかし、にぎやかなところへ飛び込んだとしても、そこから離れたときの落差は大きすぎます。あまり得策ではなさそうに思います。

人と少し離れた位置にいるといいのかもしれません。つかず離れずくらいで。BARに行っても、一人旅をしても、海を見に行っても、つかず離れず。誰も居ないところではなく、閑散と人はいる。そういう弱い親密さの場所にいるのが、どうしようもなくさみしいときには良さそうに思います。

集団の中にいて弱く繋がっている。これってどこかで聞いたなと思いつつ、岡壇さんの「生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由がある」で書いていた徳島県の海部町に似ていますね。よそ者が多く密につながらないことが自殺低減に役立つとあります。

ただこの境地になるには、そう簡単なことではないでしょう。どこにいてもさみしい人は、身を切るような愛情欲求の中で身もだえしているわけですから、ほどほどの関係に満足しようにも満足しようがないのです。その身もだえの中の修羅を通り抜けないとそこへは到達できない。その真実を負えるようになると、ようやくその地平の彼方に「ほどほど」ということが見えてきます。

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