巨人の星の「前のめり」
目の前にあることをやって、
生きていけるだけ生きて、
ダメになったと思ったら、その瞬間に死のう
(或る人のツイート)
1960年代の終わりに巨人の星という人気漫画がありました。少年マガジンはその漫画で成功した出版社と言ってもいいかもしれない。後でテレビアニメにもなりました。高度成長期のムードの中で、前へ前へと時代が流れていって、そのムードに煽られて、日々の生活が営まれていた時期でした。高齢者の方々は、あの時期へのノスタルジーも伴って、この漫画を懐かしく思い出す人もいることでしょう。
主人公は星飛雄馬(ほし ひゅうま)。その父、一徹にしごかれた飛雄馬がプロ野球の巨人軍に入って、野球生命を閉じるまでの物語です。スポ根もののハシリともいえるでしょう。
どういうシーンだったかは覚えていませんが、一徹が飛雄馬へ諭すシーンがあります。練習を止めたいと弱音を吐く飛雄馬へ向かって一徹が言います。ある武将が死ぬ場面の例え話で、「死ぬ時も、後ろを振り向かず前のめりになって死ぬんだ」と。そのシーンに日本中が唸ったことでしょう。
最初に紹介した「或る人」はこの一徹とは同列に並べることはできません。なぜなら一徹の厳しさは、よくある厳しさだからです。一徹も普通の人だったから、ああ言えるし、日本中の人も一徹の厳しさを理解できるから、人気も出るのです。
一徹の普通さ
ここで思い出してほしいことは、このように一徹のように言える人というのは、後ろ向きという人生も知っているということです。後ろ向きにも生きられる人です。後ろ向きを知っているから「前向き」と主張できる。
自分の生きる辞書には、前向きも後ろ向きも、両方あるということです。それを聞いて頑張る飛雄馬の辞書にも、前向きも後ろ向きも、両方あるということです。さらに、そのような巨人の星が日本中で見られているということは、日本の大勢の人々の辞書にも、前向きも後ろ向きも、両方あるということです。日本がそうなら、その感覚は、世界中に共通した概念です。
オリンピックを見ればそれは分かりますね。世界中のほとんどの人の辞書には、前向きも後ろ向きも、両方あるのです。だからオリンピックというものが成立する。ポジティブ思考がもてはやされるのは、ネガティブ思考もどういうことか知っていて、後ろ向きで生きるとはどういうことかを知っているということです。このことに、今回の話は注目いただきたいのです。
前のめりにしか生きられない人々
さて、カウンセリングにやってくる人の中には、この「後ろ向き」という言葉を持っていない人がいます。言葉での理解はしているのですが、それがどういう意味だか、こころの底から分かっていない人がいます。後ろ向き=休憩するということが、どういうことか実感がわかない。そういう人は、前へ向かうしかないので休むことを知りません。そういう人にとって休むということは、死を意味するのです。
不思議ですね。一徹に同調できる、普通の人々にとって、この感覚は不思議だと思います。(この不思議さと知るには、愛着障害ということを知らないと理解できません。)
このような人々は、星一徹のような人々(普通の人々)とは違う人々です。前のめりになって死ぬということは当然すぎて、あえて「前のめりに」と諭す一徹の行動はおせっかい以外の何物でもなく、よく分からないかもしれません。一徹の言動は当然のことになぜ皆は感動するのだろう。前のめり以外のことって人生にあるのか?そういうことがよく分からないのです。
普通の人々がなぜ感動するかというと、普通の人は、普通のときは後ろ向きに生きているからです。日々の些細なことをグチを言い合って生きている。この後ろ向きがあるからこそ、人生というものは存在できるのでしょう。だから、一徹の厳しさは、同じ線上にならぶものです。普通の人々にとっては、前向きも後ろ向きも同じLineに乗っかっているのです。
ですから、前のめりにしか生きられない人というのは、一徹の前のめりとはちょっと違うのです。いや、決定的に違うところがあるのです。
このような人々が、ひとたび後ろ向き体験をしてしまうと、死ぬしかなくなるわけですから、それは深い闇に入っていくことになります。ただ、その闇路は、最終的には光に導かれるわけですが、その光の一筋を見つけるまでが大変な旅路になります。後ろ向きを普通に知っている人なら光は見つかり易いですが、そうではないので、大変な旅路です。カウンセラーはそのことを理解しながら、それらの人々の物語に繋がっています。
(また別の人のツイート)
私は突っ張って無理をして生きてきました。このつっかえ棒が折れたらどうなるのか。折れるのじゃないかと最近よく思います。折れたら死ぬのでしょう。自分の人生は恵まれているとは思っていません。けれど歩みはラッキーだったなと思う。幸せじゃなかったけど、ラッキーは運はあった。ただ今は、そのラッキーなことも、ラッキーではなくなりつつあります。ラッキーと思っていたのは、それこそ幻覚だったのか。