絵本とトラウマ治療(愛着障害)

愛着とトラウマ(虐待)
この記事は約8分で読めます。

アンデルセンの絵のない絵本の物語には、さまざまなお月様が出てきます。

お月様が地上の人間たちの生活を見守っている話です。アラビアの空の上をすべっていくお月様などが登場します。恋人や母と子どものやりとりを見守っています。生命の誕生から臨終のときまで、お月様はそこに居ます。

宮沢賢治の銀河鉄道の夜の後半のシーン、つまり汽車が夜空を走っていくシーンでジョバンニが垣間見る、死の世界と同じような質のものがそこには描かれています。アンデルセンも賢治の作品にも、「生」と「死」が描かれているわけですが、そこには確かにある強烈なトーンが流れているように感じるのです。

それは、

生きることは死ぬこと、ということです。

絵本というものは子どもにだけ与えておくのはもったいない。子どもはそこに「生」を見出し、大人はそこに「死」を見出したりするのです。

ここでは、グラフィックデザイナーでもあったレオ・レオニの作品を紹介します。カウンセリングの現場でどのようなことが起きているのかを、各々の作品を見ながらみていきたいと思います。

レオ・レオニというと小学校の教科書にも登場するスイミーが有名ですね。「僕が目になる」と宣言した、あの黒い小さな魚の話です。

絵本ではありませんが、彼の幻想植物という小説に、ソレアという学術名を持った植物である「夢見の杖」が出てきます。この小説は、その名の通り、この世に実在しない幻の植物たちの話なのですが、この「ソレア」を、うちの相談室の名前にいただきました。(無断です。ごめんなさい、レオさん。)

幻想植物は、彼の箱庭的世界が広がっています。箱庭的というのは、こころの深いところにある影のようなもの、という意味です。影を知ることは大切な意味があります。それによって目に見えているものがより現実化する。見え方が変わってくる。これはトラウマが癒される瞬間には、誰しもが経験することです。

■マシューのゆめ―えかきに なった ねずみの はなし

マシューは屋根裏が住みかのねずみ。両親と3人で過ごしています。ごみやほこりにまみれた、みるからに汚い住まいです。両親は、マシューに将来何をしたいか聞いています。

ある日、マシューはねずみの学校の行事で美術館に行きました。そこには色とりどりの作品があり、マシューは目を奪われます。

その夜、夢を見ます。とてもカラフルな世界を歩くマシュー。美術館で見た抽象画のシンプルな色づかいが夢に出てきます。

あくる朝、目覚めると、周りのごみやほこりの世界が一転して、抽象度の高い色あざやかな世界として彼の目に飛び込んできます。

そこで彼は絵描きになることを決心するのです。

このマシューの話は、トラウマ治療そのものなのです。

彼が絵描きになると決めるきっかけとなった瞬間がそれです。ごみやほこりの世界は実際には変わってはいないけれど、見え方が変わるのです。彼の中で明らかに違う世界として、その世界がシフトするのです。彼の世界観が一瞬にして組み変わるのです。

心的外傷(トラウマ)についても同様で、体験した事実は変わりません。その忘れ去りたい過去の事実に今を生きていくエネルギーを吸い取られ、未来の希望を吸い取られている人が治療にやってきます。

治療が進んでいくと、そのトラウマに対する捉えかたが変化する瞬間が来ます。マシューが「抽象度の高い色あざやかな世界」として、自分のみすぼらしい生活空間が目を見張る新しい輝いた空間と再認識した瞬間に似たような瞬間がやって来ます。それは必ずやって来ます。そのとき、その過去の出来事は相談者にとって利用できるもの、コントロールできるものになるのです。いままで自分を苦しめてきたものが、自分が利用できるものに変化するのです。

このとき死んでいた時間がみずみずしいものとして生き返るのです。

マシューの夢は、物事にはそのような変化が必ずくることを、芸術という分野において示してくれているのです。

■ペツェッティーノ―じぶんを みつけた ぶぶんひんの はなし

小さな四角いペツェッティーノは、自分は何かの部分品の1つに違いないと思っています。自分は誰の部分品なのかを探す旅に出ます。

走るやつ、強いやつ、泳ぐやつに、自分はあなたの部分品か聞くたびに、部分品が足りなければ走ったり強くなったり泳いだりできないと言われます。

こなごな島へついたとき、山の上からペツェッティーノは転げ落ちてしまいこなごなになってしまいます。

そこで彼は自分のも小さい部分品の集まりだったことに気がつきます。

この話は、小さくても足りないものは1つもないのだということを発見する話なのですが、私は、この話を読むと、カウンセリングのとき相談者のかたが語るストーリーを思い出すのです。

そのような話って前にも言っていたよね。
そのような気分って他にどんなときに感じる?

そんなふうに質問するときがあります。

人間の経験というものは、時期や場所や人物が異なっていても、似たような気分が幾重にも積み重なっているものなのです。非常に個人的な話、例えば昨日アイスクリームを食べた話を相談者のかたが始めたとしても、その話の中には、その人の普遍的ともいえる気分が表現されていたりする場合があるのです。

ですから、取るに足らぬ話などないのです。
全部、取るに足る話なのです。

ということは、治療者は、ちょっとした話にも緊張しながら聴いていることが必要である、ということです。治療者がぼけぼけしていると、大切な相談者の気分を見落として、気がつくと何年も相談に通っている、なかなか治らない、という結果になることも少なくありません。

この経験の連続性は、ペツェッティーノの話と同じように、部分が全体を表している、ということです。ペツェッティーノのこなごなに割れた自分という部分の1つ1つは、ペツェッティーノの全体でもある、ということです。(そのようには絵本の中では語られていませんが、部分は全体である、という思想が低い音として流れている物語であると思います。)

カウンセリングで話される相談者の小さな取るに足らぬと思えそうな話でも、熱心に聴きなさいよ、緊張して聴きなさいよ、そうしないと存在にかかわる重大な話を見逃すよ、とこの話は言っているようです。

物理学の世界では、この部分は全体を表すという現象を「フラクタル」と呼びます。枯葉のはっぱのギザギザは、日本列島の三陸海岸のリアス式海岸のギザギザに似ている、ということを、枯葉と三陸海岸はフラクタルな関係にあると言います。

あらゆる関係はフラクタルに収束します。ペツェッティーノはそれを教えてくれていますし、われわれカウンセラーも治療の中で、相談者との会話を通じてそれを経験しています。

■じぶんだけのいろ-いろいろ さがした カメレオンの はなし

ぞうは灰色、ぶたはピンク、みんな自分の色をもっているけれど、カメレオンはその場所その場所によって色を変化させます。

レモンの上では黄色、トラの上ではストライプ模様に。

ある日、葉っぱの上に乗ったカメレオンは、ここに居ればずっと緑だ、それが僕の色になる、と思います。

しかし秋が来て葉っぱは黄色から赤になると、カメレオンの黄色から赤になり、
葉っぱと一緒に散って、長い冬の闇の中で、カメレオンも黒になってしまいました。

春になって草原へやってくると仲間がいて、自分の悲しい体験を話しました。

話を聞いた仲間のカメレオンは、「じゃあ、一緒に居よう。色は変わるけど、僕たちはいつも同じ色だよ。」と提案します。

それから彼らは寄り添いながら生きました。

一緒に緑になって、
一緒に紫になって、
一緒に黄色になり、
きのこの上で一緒に赤い地に白の水玉になりました。

彼らはずっと幸せに暮らしました。

私はこの話を読んだとき「絆」のことを思いました。彼らの色は変化する。自分の色は相変わらず変化する。しかし、同じ色に変化した隣人が居ることで、この隣人とは同じものを共有しているのです。

変化はするが、ずっと同じもの、変化しないものがある。そういうものがあるのは幸せなことです。

変化しないものとは何か。その1つが絆です。

感情というものは変化するものです。たよりないものです。ですから感情にばかりたよっていても、ちっとも落ち着くことはできません。うつ病の人は、感情にたよりすぎているところがあります。そこに拠り所を置きすぎていると、それは変化するものだから、なかなか落ち着きません。つまり病状がちっとも良くなりません。

うつ病治療のキーポイントは、変化しないものを相談者のかたが見つけられるか、なのです。その1つとして変わらないものが、人と人との絆なのです。とても怖い思いをしたときやばくぜんとした不安があるときも、この絆が重要なポイントになってきます。

例えば災害に合われたり目撃したときや、引越しのあと新居にポツンと居るときなど、夕方になってきて知らずに同じ部屋へ集まってきて物理的に距離を縮めようとすることがあります。これができるというのは絆を作るためのベースがあるということです。そのようなことができれば、PTSDやうつにはなりにくいでしょう。

カメレオンの話は、対人関係のなかでもっとも重要なものの1つを見事に教えてくれている話なのです。精神分析医のコフートのいう「双子」の重要性です。

■うさぎを つくろう-ほんものになった うさぎの はなし

本の中にはさみとえんぴつが居ました。
彼らは2匹のうさぎを作りました。
はさみは模造紙を切りぬいたうさぎ、えんぴつは黒い線画のうさぎ。
彼らはお腹がへったので、はさみとえんぴつにニンジンを作ってもらいます。

それを食べて一時は満足するのですが、すぐにお腹がへります。

食べ物を求めて本の中を探し続け、ようやくみつけたニンジンは本物のニンジンでした。なぜなら、そのニンジンには影があったからです。

それを食べたうさぎは、影のある本物のうさぎになって本から飛び出していきます。

影のない人や影の薄い人は人間としてつまらない。影のある人は魅力的ですね。生きていくということは、自分の影を探していくということなのでしょう。

古賀メロディーの懐メロに「影を慕いて」というのがありました。

まぼろしの
影を慕いて 雨に日に
月にやるせぬ 我が思い
つつめば燃ゆる 胸の火に
身は焦(こが)れつつ 忍び泣く

まったくもって申しぶんないですね笑

うさぎが描かれた本の中という世界は、児童精神科医・ウィニコットの言う、移行対象の世界のことでしょう。ここで子どもたちは外の世界へ関心を示しながら十分に遊ぶのです。そういう世界が人の成長には必要なのです。こころに何らかの傷を負った人は、その自由に遊べる世界が変な重力に支配されていることもあるのです。

想像してみてください。わたしたちは1Gの重力の世界で生活しています。ここに2倍3倍の重力がかかったら、身体は悲鳴をあげるでしょう。こころの傷はそのような重力場を作り出すのです。

タイトルとURLをコピーしました