お悩み相談室

ソレア心理カウンセリングセンター

2018.07.13 |虐待・DV・AC・解離・依存

恋愛依存

【依存症としての恋愛】


相手の人が好きになりそうで、それに必死に耐えているのです。

そのように話されるクライエントさんも少なくありません。人を好きになるのは悪いことではないのに、好きになることでそれが悪い結果をもたらすという状況におられるのかもしれません。
そのため、恋に流されないように必死に耐えている。

恋愛依存という病理があります。

トラウマの話をしていく上で、依存症というのは切っても切れない関係です。
依存症とは、単なる甘えではありません。
いい大人が、相手にただただ持たれかかり、ただただ子どもをやっている甘えだけならば、それはあまり問題にならないでしょう。
甘えだけでなく、そこに成功欲求=自分は成長するんだ、という欲求が、葛藤状態で出現すると、依存症へ移行していきます。
抜け出せないループに入ります。

自分を成長させようという願望は、別に悪くないように思います。
これだけを取った場合、それは実際には悪くはありません。
問題なのは、子どもの自分と大人の自分が、脈絡もなく突然あっちへいったり、こっちへいったりすることです。これで周囲も本人も振り回されてしまいます。

心理学の言葉でいうと、スプリット=分裂している状況と言います。
つまり、子どもの自分と大人の自分が統合している状態でなく、
あるときは子ども、あるときは大人と、二重人格のように出現する状態です。

ここに依存症の根深い病理があるのです。依存症は自分が分裂している状態です。複数の自己に解離している状態です。この背景にはPTSDがあります。解決されていないトラウマが病理の背景として潜んでいるのです。

恋愛依存も同じです。人間関係、特に異性関係(あるいは同性恋愛関係)に嗜癖する病理です。「性」を軸としたトラウマに蝕まれているのです。

しかし、このスプリットを治していくのはたやすいものではありません。「がんばる」という独立欲求、自己成長欲求と、「甘え」という子ども心性をどのようにして一つのものとして納めていくのか。他の依存症の治療と同じで、トラウマを自分の財産にできるように治療は進みます。

治療がたやすくないというのは、依存症には、精神的な病理だけではなく、その根本に人間的な病理の一面があるからです。依存症というのは人格を崩壊させる病理ですが、これはメンタルな部分だけでなく、人間性(スピリチュアル)にかかわってくる病理、つまり人間であれば避けては通れない病理という一面があるからです。


【人間ゆえの苦悩】


人という字は、読んで字のとおり2つの棒が支えあいます。つまり他者に依存しないと生きていけないのが人間です。そこを自分だけで生きていける、つまり独立欲求、自己成長欲求だけでやっていけるのだという幻想とどのように折り合いをつけるのか、ここには高度な大人の感性が要求されます。諦観、諦めというのは、高度に成熟した感性です。子どもには、こういうことはできません。

ここをどう発達させていくのか、それが依存症への解決の糸口になります。

恋愛相手に対する「執着」というものはなくすことは難しい。それはお釈迦さまも言っていることです。だとすると、執着するのが人間だということをこれ幸いとして依存を続けるのか。それも最初は快楽に耽(ふけ)ることで気持ちがいいですが、それが堂堂巡りして結局苦悩の淵へ沈み込んでしまいます。

執着を悩むのも苦しいが、それに流されるのも結果的に苦しくなる。じゃ、どうするのか。


こういう難問には、明確な答えなどありません。


このように言うしかないのです。それは私の限界でもあるのですが、執着している自分に悶々としてください、としか言いようがないのです。
この悶々としている時間が依存症の方の人間性(スピリチュアル)を強化していきます。大人の部分を成長させていくのです。

【内面化して生きる力にする】

さて、依存への治療には、ある重要な原則があります。
この原則を実現するには時間がかかりますが、これを回避すると、治療は進展していきません。治療とは、直線的に上昇していくのではなく、円を描くように上昇していくもので、つまり同じような場所を回っているように見えるが、少しずつ違う地点を辿っている感じです。この進展が描けなくなるのです。

恋愛依存(人間関係への嗜癖)に対する、その原則とは、「依存しているその人との関係を自分の中へ取り込む(内面化する)」ことです。前にも書きましたが、それを財産、遺産にするのです。

内面化というのは、なかなかイメージしにくいと思いますが、吉本ばななの父親である吉本隆明が言っていたことが何かの参考になるでしょうか。彼は飼い犬のことについてあるエッセイで次のようなことを言っていました。

飼い犬が死ぬ。
前の犬に気持ちが引きづられ二度と犬を飼わないと言う人がいるが、次の犬を飼うことである。それが前の犬の供養にもなる。
これはどういうことかというと、次の犬を飼うことで、その犬の中に前の犬の面影を見るのである。次の犬は、次の犬だけでそこに存在しているわけではない。前の犬のタマシイも受け継いでいるのだ。
そして、次の犬が死んだら、また次の犬を飼うことだ。
そうやって飼い続けることで、昔飼っていた犬のたくさんの面影が現在飼っている愛犬に引き継がれていく。

(うろ覚えなのでかなりの脚色が入っています。かなり自分に引き付けて書いている部分があるでしょう。「面影は次の犬に引き継がれる」というところに注目してください。)
内面化とは、このような作業のことを言うのです。遺産として受け継いでいくのです。


恋愛についても、この内面化ということで考えてみましょう。
例えば、人に言うことのできない恋をしているとします。この場合、楽しいことばかりではない。苦しいこともあるでしょう。むしろそちらのが多いかもしれない。離れたいと思いながら離れられない。離れられないのは相手の面影が忘れられないからであり、相手から形にならない豊かなものも、たくさんもらっているからです。

ここが恋愛依存から抜け出せない大きな理由の一つでしょう。

本人は離れたいのです。頭ではわかっているのです。しかし、身体が動かない。
身体が動かないのは依存症の大きな特徴の一つです。
周囲に認められない恋愛というのは麻薬のようなものです。抜けたくても抜けられない。
この泥沼の中で、大切なことは、先ほども申し上げた「相手から形にならない豊かなものをもらっている」ということです。
ここが自分のハートの中にストンと落ちているかどうか、です。

たった一言でもいいのでしょう。「あなたの好きなようにしていいんだよ。」
何気ないこの言葉も、恋愛対象である相手から、ある状況で語られることで、それまでの自己否定感がすっかり飛ばされることだってあります。
もしこの言葉が、自分という存在を真に認めてくれる言葉であった場合、
この相手からもらった豊かなものは、あなたの生命(いのち)の起動力となっていきます。あなたという存在が全肯定されるわけですから。

恋愛依存している相手からもらっているどんなことが、あなたの生命に響くのかを考えてみてください。

それは言葉だけに止まりません。恋愛というからにはセックスも大切です。
相手からこれまで体験したことのないような深い豊かなエスクタシーをもらっているとしたら、それをあなたの生命に取り込むのです。自慢したくなるくらいのエクスタシーは、セックスが単に上手いということではなく、相手とあなたとの関係がそのくらい深い豊かなものであることを表現しています。その表現を自分の存在として心に深く沈ませるのです。それを遺産として自分の歴史の中に組み込むのです。

相手からもらったものを取り込むこと。そうやって相手との体験を、自分の中のかけがえのない生命のひとつにしていくのです。

執着してしまう気持ちはしかたのないことです。人間ならそれは仕方がない。相手となかなか切れない状態は続くでしょう。状況はなかなか変わらないかもしれませんが、相手を自分の中に取り込んでいくことで、それを生命にすることができる。

そうなっていくと、いつか、相手が居なくても大丈夫な自分が居ることに気がつくでしょう。そのとき、相手は、すっかりあなたの中に定着したことになります。飼い犬は新しくなるごとに昔の犬の面影を受け継ぐ。それと同じことです。

面影を内面化するというのは、それを生きる力にする、というのと同じことです。


この作業するとき、何を捨てて、何を取り込むか、それを悩むことも大切です。
相手のこと全部は取り込めないでしょうし、そうする必要もありません。全部ほしいは、贅沢というか、幼児の発想です。「これだけは私のもの、あとは要らない。」そこまで突き詰めて考えられることが、大人の発想です。

依存症の人は、未熟な幼児心性をもっていますので、この、どれを捨てるかということも難しいことかもしれませんが、そこは大いに悩んでください。ご自分の依存体質から抜け出せるチャンスと思いながら悩んでください。

【カウンセリングで行うこと】

この内面化の作業をするときのカウンセラーの在り方について考えてみます。

今一度確認しておきたいことは、
面影を内面化する(取り込む)とは、
その内面に取り込んだ面影を活用しながら自分を再構築する作業です。
再構築するとは、違う自分になることではなく、
見た目や考え、感じ方は同じだが、自分の世界を信頼しているところが決定的に違います。
BEFORE/AFTERでいうと、自分の世界を信用していないのがBEFORE、自分の世界をゆるぎなく信頼しているのがAFTERです。

このAFTERをめざして治療は展開していきます。

ここで仏教の習いにしたがうと、恋愛依存やその他の依存症における執着とは生きている人間なら誰しも必ず持つ「業(ごう)」です。そして執着とは「愛」です。業によって生じてくる愛を自分で「受け取」っていくことを苦悩といいます。執着(愛)→苦悩(受け取ること)、これが人間の本性だと言います。(執着の前には、無明(無知)があります。)

このアイデアは依存症への治療を展開させるヒントに満ちています。内面化の話をこれまでしてきましたが、内面化とは苦悩に満ちた道を歩くことなのです。簡単には行きません。カウンセリングが進むにつれて、自分の中へ執着(愛)が内面化されるにしたがって、苦悩が増えてきます。絶望感が積もってきます。カウンセラーはその絶望感の源泉は、執着つまり愛であることをわかっているべきです。

そしてそれが愛であるならば、迷うことなく、その絶望感をしっかりと支えてカウンセリングを進めていくことです。

これが内面化作業でのカウンセラーの最大の役割と言えるでしょうか。

クライエントさんが業=執着=愛と向き合おうとされたとき、カウンセラーは、しっかりと覚悟します。何を覚悟するのか、なぜ覚悟が必要なのか、これについては依存症のカウンセリングを経験されている方はわかりますね。あえて言いません。目の前に座っている相手が人間の深みへ入っていくときには、カウンセラーはいつも覚悟をするわけです。


さて、恋愛依存の背景には、さまざまなものが含まれています。なんらかのパーソナリティ障害の一つの表現としてそれが現われている場合もあります。

その一つは、未熟、つまり幼児のような心です。恋愛依存からの脱却は、永遠の愛を分かち合える人と巡り合って一緒になることではありません。そういうロマンティックな出会いをして一緒になる人も世間には居るかもしれませんが、永遠の愛を分かち合える人と出会うことが重要なのではありません。

永遠の愛という幻想は、おとぎ話として自分の心の中にひっそりとしまっておけばいいじゃないでしょうか。それを現実で求めようとするから辛くなるのです。

「豊かな愛を一瞬でも経験したことがある、そしてそれを自分のものとした」
これが生きていく上では大切なことです。恋愛依存からの脱却は、素敵な人と出会うことでなく、一人でも生きていける感触を持つことです。それは依存症全般に言えることなのです。
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