「小学生」という病~幼い大人たち

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体罰について文科省の通達がありました。

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文科省、懲戒と体罰の区別を教委に通知…頬つねるのは体罰
2013年3月14日(木)11時15分配信

体罰の禁止および児童生徒理解に基づく指導の徹底について

文部科学省は3月13日、全国の教育委員会へ体罰の禁止と児童生徒理解に基づく指導の徹底を通知した。教職員が体罰に関する正しい認識を持つよう取り組むことが必要であるとし、懲戒と体罰の区別について具体的な事例を挙げて説明している。

(以下は文科省のサイトからの抜粋)

学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰等に関する参考事例

本紙は、学校現場の参考に資するよう、具体の事例について、通常、どのように判断されうるかを示したものである。本紙は飽くまで参考として、事例を簡潔に示して整理したものであるが、個別の事案が体罰に該当するか等を判断するに当たっては、本通知2(1)の諸条件を総合的に考え、個々の事案ごとに判断する必要がある。

(1)体罰(通常、体罰と判断されると考えられる行為)
○ 身体に対する侵害を内容とするもの
 ・ 体育の授業中、危険な行為をした児童の背中を足で踏みつける。
 ・ 帰りの会で足をぶらぶらさせて座り、前の席の児童に足を当てた児童を、突き飛ばして転倒させる。
 ・ 授業態度について指導したが反抗的な言動をした複数の生徒らの頬を平手打ちする。
 ・ 立ち歩きの多い生徒を叱ったが聞かず、席につかないため、頬をつねって席につかせる。
 ・ 生徒指導に応じず、下校しようとしている生徒の腕を引いたところ、生徒が腕を振り払ったため、当該生徒の頭を平手で叩(たた)く。
 ・ 給食の時間、ふざけていた生徒に対し、口頭で注意したが聞かなかったため、持っていたボールペンを投げつけ、生徒に当てる。
 ・ 部活動顧問の指示に従わず、ユニフォームの片づけが不十分であったため、当該生徒の頬を殴打する。

 ○ 被罰者に肉体的苦痛を与えるようなもの
 ・ 放課後に児童を教室に残留させ、児童がトイレに行きたいと訴えたが、一切、室外に出ることを許さない。
 ・ 別室指導のため、給食の時間を含めて生徒を長く別室に留め置き、一切室外に出ることを許さない。
 ・ 宿題を忘れた児童に対して、教室の後方で正座で授業を受けるよう言い、児童が苦痛を訴えたが、そのままの姿勢を保持させた。

(2)認められる懲戒(通常、懲戒権の範囲内と判断されると考えられる行為)(ただし肉体的苦痛を伴わないものに限る。)
 ※ 学校教育法施行規則に定める退学・停学・訓告以外で認められると考えられるものの例 
・ 放課後等に教室に残留させる。
 ・ 授業中、教室内に起立させる。
 ・ 学習課題や清掃活動を課す。
 ・ 学校当番を多く割り当てる。
 ・ 立ち歩きの多い児童生徒を叱って席につかせる。
・ 練習に遅刻した生徒を試合に出さずに見学させる。

(3)正当な行為(通常、正当防衛、正当行為と判断されると考えられる行為)
 ○ 児童生徒から教員等に対する暴力行為に対して、教員等が防衛のためにやむを得ずした有形力の行使
 ・ 児童が教員の指導に反抗して教員の足を蹴ったため、児童の背後に回り、体をきつく押さえる。
 ○ 他の児童生徒に被害を及ぼすような暴力行為に対して、これを制止したり、目前の危険を回避するためにやむを得ずした有形力の行使
 ・ 休み時間に廊下で、他の児童を押さえつけて殴るという行為に及んだ児童がいたため、この児童の両肩をつかんで引き離す。
 ・ 全校集会中に、大声を出して集会を妨げる行為があった生徒を冷静にさせ、別の場所で指導するため、別の場所に移るよう指導したが、なおも大声を出し続けて抵抗したため、生徒の腕を手で引っ張って移動させる。
 ・ 他の生徒をからかっていた生徒を指導しようとしたところ、当該生徒が教員に暴言を吐きつばを吐いて逃げ出そうとしたため、生徒が落ち着くまでの数分間、肩を両手でつかんで壁へ押しつけ、制止させる。
 ・ 試合中に相手チームの選手とトラブルになり、殴りかかろうとする生徒を、押さえつけて制止させる。

以上

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なぜ文科省は、このような体罰についてのマニュアルを作るのでしょうか。文科省発行の参考事例を読んでみると、これらは大人にとっては、すべて当たり前のことです。取るに足らぬことです。言われるまでもないことです。でも、彼ら教師にとっては必要なのでしょう。なぜか?

それは行政(文科省)が、「教師は幼い」と見ているからです。ずいぶんと教師は見下されたものです。そのようにマニュアル化を推進しようとする行政や政治家も幼いですが、そのように見られてしまう教師にも問題はあります。実際に、ちょっと大人とは程遠いような教師が少なからず居るからです。

危ないことを止める以外で、家族でもないのに他人の子どもを殴ることはいけないことだというのは分かりきっています。しかしそれが分からない大人もいるのです。部活などで指導のために殴るような話は、指導者のストレス発散にすぎず、ずいぶんと低レベルな話なので、ここでは話題にはしません。

教師に限らず、社会の中には、いい年になっても、学級委員、風紀委員のような正義感をふりかざす人がいます。(正義の話をしよう、なんて本も以前ベストセラーになりました。)

小学生が持つ正義感はストレートです。親から、あるいは学校で友達や先生から、何の迷いもなく獲得してきたものです。そういう正義感は、小学生という安定した時代を生きるには必要なものです。しかしそれは、外側からもらったものであり自分のものとして内面化はされていません。ですから、間違ってはいないけれど、複雑な対人関係(大人と大人の関係)には、それは使えるものではありません。人は、思春期を通過することで、その正義感を内面化していくのです。内面化の過程で、その正義感に変更・修正がかかり自分独自のものになって、グレーの部分が増えて陰影のある深みが出て、大人の正義感に成って行きます。このように、通常は、小学生のときに獲得した倫理観は、思春期に揺さぶりがかかって変質し内面化し、大人の倫理観に成長を遂げるのです。

そのような過程を経ることが普通なのに、正義感などが内面化されていない、自分のものになっていない人が居ます。内面化の作業は、異物を自分のこころに取り入れる作業なので、大きな苦痛を伴います。異物なので、こころは排除しようとします。これが思春期の親への反抗です。この作業はしんどいのでスルーする人がいます。スルーした人は、そこで成長がストップします。そして倫理観は内面化されていにために、そのような人は、正義感を杓子定規にしか使えません。応用が利かない。そういう人は、やけにルールや規則にきびしかったりします。きっちりとフォーマットに沿っていないと満足しません。公式見解で人生を生きているような感じ。頑張ればすべて解決するといったアンパンマンのような世界、つまり小学生の世界で生きている。だから単純な思考を頼りに、正義ぶって体罰に走ってしまうのです。自分は正義の使者、アンパンマンだから、自分のやっていることは正しいのです。このような、思春期を迎えることができなかった幼い人は結構、周囲に居たりします。

アスリートの中にも、こういった感じを受ける人がいます。ストイックで折れない強い精神力を持っていたり、濁りがなく分かりやすいですが、物事の理解に深みがないためにひとたび複雑な問題になると対応できません。いきおい力関係に落とし込みがちになります。体育会系の世界と体罰はこうして切っても切れない関係になっていきます。このような、肉体は大人なのにこころがまだ小学生のままという、「小学生」とも言える病、教師やアスリートを例に出しましたが、芸術家や経営者、専門職や高学歴の人々の中にも少なからず見受けられるのです。また、これは日本特有のものではありません。世界どこへ行っても、こういう人は居ます。なぜなら、人のこころの生業(なりわい)というものは、世界どこへ行っても変化しないからです。つまり、小学生までに獲得した倫理観が、思春期を経て内面化して成人に達する、という道すじは、人間の成長としては共通のものだからです。

このような人は、他人を責める傾向があり、物事の裏を読むことができず、我慢することができずに葛藤することもありません。なぜなら葛藤は大人しかできないからです。大人の世界というものが分からない人なのです。だから、杓子定規なマニュアルが必要になってくるのです。普通の大人なら、常識であり、自分の感覚で対応できるものなのですが、普通の大人に成りきれていない人々が多い現場ではマニュアルが必要なのでしょう。これは現代に限ったことではないし、教育現場に限ったことでもありません。彼らが治療現場に登場すると、自己愛性パーソナリティ障害などの病名がついたりする場合もあります。

では、なぜこのような人は、幼いままなのか。小学生のままで止まっているのか。その人に発達の問題がなければ、そこでストップせざるを得なかった家庭内の事情やら自分の事情があるのです。このさまざまな事情により、幼い大人の人々はさまざまな顔を見せます。政治家から殺人者まで多種多様な顔があります。そして、このような人も、自分の人生を好きこのんでそこでストップさせているのではないのですが、ストップさせていることを本人自身が気がついていないところが周囲を悩ますところなのです。なぜ気が付かないかというと、倫理観が内面化していないため、自分の外側にあるため、自分の痛みとして自分の内側で感じることができないので気が付かないのです。

親子関係があまりに支配的であった場合、親へ反抗できなかった子どもは自我の発達をつぶされて、思春期を迎えることが困難なことがあります。気の弱い引きこもりなどです。また家計が苦しくて子どもが親を助けないといけなかった場合、子どもは親へ反抗する(思春期)を放棄して、子どものまま、親のために生きようとします。親から負荷をかけられたらそれに従わざるを得ないのです。このような人が大人になるとアルコールへ走ったりする場合もあります。(アルコール依存の人は、原則は大人のこころを持っているのですが、まれに子どものままの人もいるということです。)

個人的な事情としては、小学生の頃があまりに輝かしいものであった場合、そこに執着して、苦しい世界(思春期)に進むことを放棄するということもあります。大人になってもガキ大将のままのような人です。このとき「輝かしい」とは良いことばかりではなく、悪いことも含まれます。例えば小学生による殺人などの、サイコパス的(精神病質的)なことも含まれます。悪事を働いて輝くという快楽殺人と呼ばれるような行動です。小中学生による殺人というと、すぐに発達の問題に結びつく傾向がありますが、そうばかりとは言えないのです。

境界性パーソナリティ障害の人も幼稚なところがありますが、それは小学生の幼稚さというよりも、思春期の幼稚さです。境界性パーソナリティ障害の中核は、母親との思春期葛藤が激しい状態なのですが、対人関係において退行して乳幼児期へ子ども返りをしたりするために、ずいぶんと幼稚に見えるのです。しかし、ベースは思春期であるために、体罰をする大人よりはレベルが高いと言えるでしょう。

マニュアルを必要とするのは、幼稚な大人だけではありません。虐待されて育った人々も、頼りにできる規範を親から受け取ることができず、外部に求めないといけなかったために、マニュアルが必要でした。しかし、この場合のマニュアルは、生きるための規範であり、生死にかかわるものです。幼稚な大人が頼りにしているマニュアルとは意味合いが違います。ですから虐待を受けて育った人々はマニュアル的ではあるのですが、精神的には一応大人の体面(たいめん)を保っているため、幼稚な考え方をする人は少数です。しかし、その大人の体面というものが安心感に裏打ちされた安定感のあるものでないために、苦労が多いのも事実です。

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