【生きる、谷川俊太郎】人はなぜ生きているのかという人生最大の問い

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人はなぜ生きているのかという問いは、人生において二度発せられます。そしてそれらは発せられる時期によって彩りが変わっています。人はその色をそのときの感性で感じながら、自分のものにしていくのでしょう。

生きる

生きるといえば、私たちより上の(親の)世代は黒澤明監督の映画を思い出す人もいるでしょう。また、私たちより下の世代では、谷川俊太郎の絵本を思い出す人もいるでしょう。

前者は中年期の死期の近い公務員の話であり、中年期の危機を表現しています。

後者は谷川が30代に書いた詩をベースにしており、青年期というより成人期に入った人が未来を見据えて語っている感じがします。今回の話とはちょっと違うところにあるものですが、普遍的な哲学を表現していますので少し紹介しておきます。

生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ

(谷川俊太郎「生きる」1971年「うつむく青年」より)

普遍的な哲学ではあるのですが、普遍的ゆえ愛着ベースの詩です。愛着が前提の詩です。私の著書「孤独と愛着」のラストにも谷川の詩を乗せました。「かなしみ」です。あれも愛着がベースの詩なのです。ですから、愛着から遠いところに在る人にとっては、谷川の詩がとても残酷に映るときもあるでしょう。

そんなときは、無理をして谷川の流れに合わせなくてもいいですからね。

人はなぜ生きているのか

この問いは人生最大の究極の問いであると言えるでしょう。この問いに直面する時期というものがあるようです。多くは10~20代の青年期、そして次に40~50代の中年期に、この問いに直面することが多いように思います。10代の問いに決着がつかずに、ずっと抱えている人もいます。しかし、多くの人はいったん20代に決着をみて、次に40代に入って、また新たな視点で、この問いに直面するのでしょう。

この問いの答えは人によって様々ですが、話されるムードによって大きく分けることができそうです。青年期の人のこの問いと、中年期の人のこの問いは、それぞれムードが違うのです。

青年期の人の場合は、怒りがベースになっています。これから出ていく社会への不安や怒りを抱いています。青年期とは怒りの時代だとも言われます。いわゆる反抗期ですね。怒りの強度は人によって違いますが、多かれ少なかれ、表現の差はあれど親にムカついているわけです。こうやって社会的アイデンティティを形成していくわけです。そのアイデンティティの不確実性がある時期に、その不安定さをベースにしてこの問いが発せられるのです。社会との関わりでこの問いが出てきやすいと言えるでしょう。

青年期の「なぜ生きているのか」という問いには、少し棘(とげ)があると言ってらした方がいました。この棘は、社会に対するもので、社会に対しての自分のアイデンティティが揺らいでいるのです。

それとは違って中年期の人のそれは、ムードが変わってきます。中年期とは、青年期に確立したアイデンティティを再編する時期とも言われています。青年期に作ったものが揺らされて、もう一度立て直す必要に迫られます。いったん確立されたものが揺らされるわけですから、この時期はとても危ういのです。おそらく人生の中で一番リスクの高い時期のように思います。人生で、最も「死」に直面する時期なのです。

その大変な時期に揺らぎを感じている、こころの底からじわりと「なぜ生きているのか」という問いが立ち上がってきます。青年期のような棘のようなものは、そこにはもうありません。静かにそれが立ち上がってくるのです。

アイデンティティの建て直しを計って壮年期に入って、人生のクロージングを迎えていく。この静かな問いは、静かゆえ安全というわけでなく、かなり危険な橋を渡ってはいるのです。その中から、自分なりの真実が見えてくる。

人はなぜ生きているのか。これは究極の問いです。この問いに対して人は一生をかけて自分なりの哲学を作っていくと言えるでしょう。そこにはアイデンティティということが深くかかわっているのです。

安全な空間の中で傾聴され、自由に葛藤を話して整理したいときは、ソレア心理カウンセリングセンターへ。

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