小学校の先生から質問を受けました。自由とワガママは何が違うのか。なるほど、この二つは似て否なるものかどうか。これは子育てもからんでくるのかと思って、徒然なるままに、自由とワガママの違いについて考えてみました。人間の成長という心理学的な視点から見ての話ですので、社会的な規範に基づいて見るとどうなるのかよく分かりません。私は心理を専門にしていますので、その視点で話を進めていきます。
この2つ、シンプルに言うと、次のようになるでしょうか。
・自由の裏には責任がある。だからこの言葉は大人向け。
・ワガママの裏側には責任はない。だからこの言葉は子ども向け。
大人というのは精神年齢が大人、子どもといのは精神年齢が子どもということです。実年齢ではありません。実年齢が未成年の人はすべて子どもに入ります。ですから未成年でしたら実年齢と精神年齢はほぼ一致します。ほぼ、というのは、思春期に入ってくると、単純に子どもであるとは言えないからです。半分子ども、半分大人という感じです。しかし、実年齢が成年に達すると精神年齢も成年かというと、そう簡単には考えることができなくなります。不思議に思われるかもしれませんが、精神年齢が未成年のまま停滞している大人もいるからです。精神年齢が成人するとは、一部の人にとってはとても大変なことなのです。
■ワガママについて
思春期に入る前の小学生くらいは完全に子どもなので、自由でなく、ワガママなのが本性です。ワガママとは甘えのことです。その頃はたっぷりとワガママさせればいいのです。ワガママだから、度が過ぎたときは大人は子どもをちゃんと叱ればいいだけなのです。いや、ちゃんと叱らないといけません。叱るというのは甘えさせているということです。そうやって子どもを甘えさせながら付き合ってやる。ワガママに対しては躊躇せずに叱ることができることを知らない大人も多いのでしょうか。叱りつつ、たっぷりと甘やかす。しかしワガママが過ぎたら、こらッとゲンコツでゴツンとやる。これがしつけです。
度がすぎたら叱ってやる。そうして子どもがシュンとなって反省すれば、子どもは自分のやったことに責任をとっていることになります。責任をとっているので、このワガママは「自由」になります。自由ですので、それ以上叱ると、おかしいことになります。責任をとっているのですから、後追いをして激しく責め立てるのは変な大人になります。戸塚ヨットスクール風のいじめと同じになります。シュンとなったら、スッと怒りを引っ込めること。これが大人の作法なのです。
学校の紹介か何かで、自由な校風というのは良く聞くPRですが、小中高等学校はだいたい未成年対象なので、正確にいうと「ワガママな校風」と言えばいいのです。子どもがワガママなのは悪いことではないのですが、なぜか自由と言ってしまう。そうしないと示しがつかない大人側の論理があるのでしょう。ワガママといえないなら、自由という表現をもっと違うスローガンに変えたほうがいいでしょう。例えば、のびのびとした校風とか。なかなかワガママを正面から許してくれる程、自信のある大人は少ないのでしょうか。
重ねていいますが、ワガママは悪いわけではないのです。子どもはもともとワガママな存在です。ワガママとは健全な自己愛です。逆にいうと健全な自己愛からくるワガママならいいのです。叱れば反省する。幼稚園くらいまでは十分にワガママをさせてやるといいのです。それが不十分だと、甘えが足りない状態になって飢餓感に苛(さいな)まれます。子どもはそれでは生きていけないので、飢餓感を意識下に抑圧して平気な顔をして生きる術を身に付けるようになります。そうしているとこころの内圧が高まりすぎてワガママの暴走が始まり、コントロールができなくなって行きます。それが思春期以降の激しい反乱となって表れてくるのです。自分の中で内乱が起きている状態です。そして、その終わりの見えない戦いは長期に渡るのです。
健全な自己愛は、たっぷりと甘えた経験のある人に育つものです。それによって他人を愛することを通じて自分を満たすことができるようになります。コフート理論の学者によるとこの自己愛を太古的発揚感といいます。これとは別にひたすらに自分だけを愛する未熟な自己愛を防衛的誇大感といいます。来談者中心主義のロジャーズは、「健全な自己愛が育つことで、自己の防衛ではなく、自分自身を本当に好きになり、ありのままの自分でいることを喜べるようになる」と言っています。これは非常に確信をついた指摘でしょう。そのためには、治療者による深い受容が必要になるのです。
■自由について
自由については、大人は叱れないのです。叱ってはいけない。叱る権利がありません。なぜなら自由にしている人は、そのことに責任を取っているからです。つまり大人をやっているのです。大人に対しては叱れないのです。叱ると変なことになります。変なこととは、責任を取る人は必ず葛藤していますので、その葛藤をつぶすことになります。自由なことをやって葛藤しているなら、それを見ているだけでいいのです。見守る。そして必要なときには支援してやる。見守っていると葛藤は必ず解消して、自由な方向に動いていきます。自由な方向へ向いて自然と流れていきます。自然な人間関係に落ち着きます。
これが会社という社会組織においては、強いリーダーシップを発揮できる人ということになります。リーダーとは、指示を与えて、その後、見守っている人です。余計なことを言わずに支援している状態です。支援とは、結果にフォーカスするのでなく、プロセスにフォーカスしていることです。そのプロセスがうまくいっているかどうかを、ずっと見守っていること。結果は問題にしていない。リーダーのこころは結果に持っていかれていない。これがリーダーにとって必要な行動でしょう。
しかし、大人が責任を取っていない場合は、つまりワガママだったら、叱ってもいいわけですが、これが実に難しいことなのです。子どもに対してなら、有無を言わさず叱れるのですが、実年齢が大人になっていて精神的には子どもの人には、叱ったとしても、スネルだけなので、彼らが責任をとれるようになるかというと、そこは簡単にはいきません。カウンセリングの場面でも、そのような人は度々登場しますが、そのような人に対しての対応はなかなか難しい。何か激しい行動化があるわけではありませんが(行動化を起こす人もいるにはいますが)、治療はなかなか進まない。そうしているうちに治療が中断することもあります。こちらは、そうならないように注意はしていますが、なかなか難しい場合もあります。
■自由もワガママも悪いものではない
自由とは、責任が必ず発生するものでした。責任を取れるということは、大人であるということ。だから精神年齢も成人を越えた状態であるということです。そういう人は自由にやってよいのでしょう。自分で葛藤して、正真正銘の「うつ病」になる力があるのです。そういう人は周りも迷惑しないでしょう。正真正銘とは、新型うつ病とは違うということです。新型うつは、なんちゃってうつ病です。ワガママ病とも言います。
ワガママとは子どものやることだから、そこに責任は発生しません。だから子どものやることには大目に見てあげることが必要ということでしょう。子どもは(可哀想に)自由ではないのです。ワガママなのです。そしてそのワガママを認めてあげることが、大人の仕事なのでしょう。ワガママとは甘えということですね。
自由は甘えとはちょっとテイストが違いますね。自由はワガママと違って、なんかもうちょっと物事を構成する原動力になるような感じです。責任が背後にあるので、そのような方向の定まった不自由な力が沸いてくるのです。ワガママは、本当にもっと縛られていない。自由はもうちょっと不自由です。不自由だから創造的なことができるのです。フォーカスが定まる。何か話がこんがらがってきましたか(笑)。自由は、不自由だけど安定している感があります。自由とは、何か父性に似ているようですね。この話はまた別のところでやりましょう。
精神的に大人になっている人でも、たまには子どもに帰っているときがあります。え?この人が?という人が非常に幼稚っぽいワガママをやったりする。けれど、そのワガママには、どこかしら大人の部分が保持されているので、責任に縛られて、ワガママになりきれない不自由さはあります。そういう可愛さはあります。それは周りの人にとっては予定調和というモノで、安心して見ていられる。そういう不自由な安心感があるのが大人のワガママということになるでしょうか。十分に許容して見ていられるわけです。