抑うつ症状のメリットについて

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うつ病はつらい病気です。

うつ病までいかなくても抑うつ感を持って生活するのは気分も晴れてきません。

うつ病、抑うつ感の中心的な障害は、「喜びの喪失」です。

クライエントさんは、美しいものをみても心の底から感動を感じることもできず、何もやる気がおきず、どうしてこんな状態になってしまったのか、以前の快活な自分へ戻りたい、自分はなまけものになってしまった、周りに申し訳ない、と自己否定へ陥って、毎日いたたまれない気分にさらされています。それをエンドレスで幾度となく考えてしまい、その思考サイクルから抜け出せない状態に陥っています。つまり、これは前へ行けないということで、心の時間の流れが止まっていることでもあります。

これは途方もない恐怖です。そこから逃れたいと思う過程で、消えてなくなりたい、早く楽になりたい、という気持ちに圧倒され、自殺への引き金を引いてしまうこともあります。

しかし、人間にとって、抑うつと不安というものは、宿命的な実存的なものなのです。それがあるからこそ人間らしく居られるとも言えます。それがない人は、エリートコースを歩み業績をあげられるかもしれません。毎日を楽しくおかしく過ごせるかもしれません。しかし別の角度から見ると、それは本人だけが成功感を味わい楽しい人生を送っているだけで、周囲ははた迷惑をこうむっている場合が少なくありません。確かに努力があってこその業績アップです。努力と業績アップが連動していれば、そこには対外的な評価がくだされます。あの人は偉い人だ、すごい人だという評価がついてきて、評判になったり昇進と年給アップが保障されます。

評価を得るために努力をすること、これは確かに社会的な人間としては、ひとつの選択肢でしょう。しかし、これも複数の選択肢の一つにすぎません。

名著「愛するということ」を書いた社会心理学者のエーリッヒ・フロムは、「人生において人がなすべき主な仕事とは自分自身を誕生させることであり、人の努力のもっとも重要な成果とはその人自身のパーソナリティである。」と言います。自分自身の誕生とは、言い換えれば、自分とは何であるかということがわかることです。あなたは自分が何者であるのかわかっていますか?これはとてつもない、どえらいテーマなのです。ほとんどの人が、このテーマを達観することなく人生を終えていきます。宗教の世界へ入ったとしても、そこまで分かって死んでいく人は一握りしか居ません。

しかし、それでいいのです(と、私は個人的に思います)。

「自分は、社会的にたいへん大きな評価を受けることができたが、それよりももっと重要な達成課題を達成できていない者なのだ」と、こころの底から分かるところに、実存的な抑うつ感や不安が自然と発生してきます。これが人間を人間たらしめるのです。いわゆる最も深部の無能感を分かるということです。自分は無能なのだ-これを分かる過程が「成熟」という過程なのです。漫画家つげ義春の「無能の人」には、このような抑うつ的な無能感がほどよく描かれています。

さて、ここまで風呂敷を広げたのは、抑うつ感や不安というものは生きていくために必要不可欠のものだとわかっていただくためでした。人は、自分の過去や未来のことを考えると不安感がでてきます。それは自然なことなのです。あまりに圧倒される抑うつ感や不安は病的なものに発展する危険性がありますが、適度な抑うつ感や不安は生きていくためには自然なことであり、むしろ必要なわけです。

うつ病になった人は自分の抑うつ感を恨みます。しかし、その抑うつ感を実感しているという体験は、自分を成熟へ導くためのかけがえのない財産にもなるのです。今はそのように思えなくても、あなたがいくら自分の人生を手放したいと思っても、人生はあなたを手放すことはないのです。

精神分析家であるD.W.ウィニコットは、「軽いうつ状態が一番健康的である」と言い、ウィニコットの先生であるM.クラインも、「抑うつ的になることは、ある達成の証であり、そこには統合や責任が生じている」と言っています。哲学者のキルケゴールも「不安が人間にとってもっとも本質的なものである」と言っています。

なかなかこのように考えるのは難しいですが、調子のいいときもあれば悪いときもあって当然なのだ、波があるのが自然でありそれが生きているということなのだ、と少しでも思えるようになれば、抑うつ状態を上手に生かすことができる下準備が整ったと言えるかもしれません。

抑うつ的であるということは短所ではなくむしろ長所なのです。

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