青年は荒野をめざす

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ひとりで行くんだ、幸せに背を向けて

さらば恋人よ、なつかしい歌よ友よ
いま
青春の河を越え
青年は荒野をめざす

もうすぐ夜明けだ、出発の時がきた
さらばふるさと、想い出の山よ河よ
いま
朝焼けの丘を越え
青年は荒野をめざす

みんなで行くんだ、苦しみを分けあって
さらば春の日よ、ちっぽけな夢よ明日よ
いま
夕焼けの谷を越え
青年は荒野をめざす

ひとりで行くんだ、幸せに背を向けて
さらば恋人よ、なつかしい歌よ友よ
いま
青春の河を越え
青年は荒野をめざす

3月は旅立ちの季節です。
この歌は高度成長期がピークを越えたころ、1968年にヒットしました。
フォーククルセダーズの3枚目のシングルレコード、作詞は五木寛之です。

この歌は青年のことを歌っていますので、思春期の河を超えていく若者へ向けたエールとして歌われています。思春期の河を超えるには「ひとりで行く」のです。

ひとりで行く、ということですが、人の一生において「ひとりで行く」時期は大きく分けて2度やってきます。一つが、この歌で歌われる思春期の河を渡って成人期に入っていく時期、そしてもう1つが、中年期の河を渡って老年期へ入っていく時期です。

ですから、この旅立ちの歌は、青年は荒野をめざすでも、中年は荒野をめざすでも、どっちでも通用します。「荒野」とは「ひとり=孤独」です。思春期は孤独になって成人し、中年期は孤独になって老年期へ入っていく、という意味になります。

どうして孤独にならないと、それぞれの河を超えられないかというと、それは、思春期は親や先生や友達などからもらった倫理観(生き方)に修正を加える時期であり、その倫理観を内面化し、普遍的な社会的なルールに根差したものへ更新する時期なので、孤独な時間が必要なのです。自分と向き合わないと内面化しないからです。内面化しつつ自立していく時期なので孤独が必要なのです。

では中年期はどうでしょうか。40代、50代では子育ても一段落して、自分の生き方を振り返る時期です。子どもが家族から巣立ちしていく時期でもあります。健康面での不調も現れ、若さだけでやってきた体力にもかげりが見え始めます。そのとき自分の生き方を総括するように、病気になったり、精神的な不調が現れて危機的状況になります。この状況を超えていくことで、社会的なルールに根差していた人生観が、生命的なルールに根差したものに変更されていきます。これまで拠りどころとしていた社会規範へ対峙することで、新たな規範を模索するのです。これは人生にとって最大の山場になります。なぜなら社会から離脱する可能性もあるからです。ですからこの時期は中年期クライシスと呼ばれたりもします。

思春期と中年期の孤独の差は、思春期の孤独は大人になるために必要なものであり、中年期の孤独は死んでいくために必要なものであるとも言えるでしょう。ですから中年期の孤独は、思春期の孤独とは質が違うものなのです。

思春期は自己同一性(アイデンティティ)が確立される時期だと言われています。人生で初めて、自分とは何かという問題に向き合う時期です。そのためには他者の存在は遠ざけておいたほうがいいのです。他者からいったん離れて自分を見る時期です。中年期は世話をする感覚、相手を育てる感覚を身に着ける時期です。子どもや部下(や配偶者)などに対して、それを育てる者としての役割が要求される時期です。

この「育てる感覚」というのは一朝一夕で獲得できるものではありません。子どもや夫のつらさに気がつくと、子どもや夫がどうしてそうゆう行動を取っているのかが理解できるようになります。例えば引きこもりや万引きやアルコール依存などの行動です。その行動の意味が分かり相手への理解が促進することで、相手の緊張が解けていきます。そして相手は、自分の悩みを語り始めます。ここで相手との関係がより良いものに変化します。「育てる感覚」を獲得できると、このような変化が家族に現れます。この感覚は、中年期において達成すべき重要な発達課題となっています。

親にこの「育てる感覚」がないと、子どもは苦労することは簡単に想像がつくでしょう。子どもは生きるのに苦しんで過食やリストカットなどの症状を出してきます。それに親がハッと気がついて子どもの苦労を理解することができるようになると、親に育てる感覚が生れて、子どもの過食は止まります。

ただ、20代では思春期の最中か、脱出したばかりなので、この育てる感覚は途上にあります。子育てをしながら、一緒に自分にも育てる感覚を身につけていくことになります。そして30代、40代でその感覚を獲得し、ようやく中年期の心性になれるのです。また、30代、40代になっても、この育てる感覚が身についていない親もいます。これは、その人の事情があるのです。身につかなかった事情がいろいろとあるのです。このような人は、カウンセリングでその部分を振り返っていくと良いでしょう。

育てる感覚を日常生活の中で使いこなせていくと対人関係がマイルドになり、生活全体の緊張感が低下し余裕が出てきます。すると、人生最後の山場である「死」を意識するようになり、老年期へ入って、本当のひとりぼっちを経験します。そして、しみじみひとりって良いなあという感覚が生まれてきます。孤独を愛する感覚です。中年期の危機を乗り越えると、孤独の真の意味が理解でき、死ぬことへの恐怖というものがしだいに薄れてきます。死ぬことは怖いものというよりも、死ぬことは自分を活(い)かすものという意識が高まります。私はこれを「自活」感覚と呼びたいと思います。孤独の中から生み出される自活感覚です。これを宗教者は悟りと呼ぶこともあるでしょう。

思春期を超えると自立して自活しますが、中年期を超えると死を身近に感じて自活するのです。

しかし、だれもがこの孤独な自活感覚を得ることができるわけではありません。人生においては、中年期の「育てる感覚」が身に付くだけでも十分でしょう。それだけで十分に生きた実感は伴います。しっかり子育てができたという実感に満たされていれば、死んでいくのに思い迷うこともないでしょう。だから、自活感覚の獲得は、そこまで行ければモウケモノ程度に思っていていいでしょう。

D.J.サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」では、物語の最後のほうで主人公に、僕はライ麦畑のはじこっこのほうにいて、こっちへ向かって走ってくる子どもたちが崖から落ちないように捕まえて、ライ麦畑へ返してやるようなことを仕事にするんだ、というようなことを語らせています。このようなライ麦畑の捕まえ手(キャッチャー)のような仕事も、育てる感覚でしょう。アメリカの家族を扱った小説は、だいたいそのへん(中年期の発達課題を達成した段階)で終わっているように思います。ということは、自活感覚は、ほんとうにオマケでいい、ということなんですね。

余談ですが、「ライ麦畑でつかまえて」は誤訳で、「ライ麦畑のつかまえ手」が正解です。The Catcher in the ray ですから。

フォーククルセダーズの生みの親、加藤和彦は2009年に自殺を遂げます。彼が患っていたと言われている「うつ」については詳細は知りません。私が彼の自殺を知ったとき、彼は自由に生きることができたのか、というようなことを思いました。それは彼しか分かりませんが、自由に死んでいったようにも思いました。衝撃はありましたが、こころのどこかで、それが彼にとって、そんなに悪い選択肢ではなかったのではないか、とも思っていた自分も居ました。十分に成長したあと決行される自殺には、哀しみの質も違うのでしょうか。

加藤の自殺は、老年期のテーマである「自活」につながることなのかもしれません。彼のこころの発達は、十分に老年期に入っていたのかもしれません。

合掌。

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