発達障害が疑われる事件と虐待~虐待は世代間連鎖しない

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2012年後半に実際にあった事件についての新聞記事の抜粋です。発達障害と虐待の記事に焦点を絞って考えてみます。

◆知的な障害による事件は意外と多い

ちょっと不思議な印象を受ける事件です。その不思議さが診断に重要な役割を果たします。

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窃盗:県職員、さい銭盗む 500円、容疑逮捕 無断欠勤し野宿 /青森
毎日新聞 11月07日 地方版

ほこらからさい銭を盗んだとして、七戸署などは5日、三八地域県民局地域健康福祉部福祉調整課主事の県職員、増田謙吾容疑者(44)を窃盗容疑で緊急逮捕した。県人事課によると9月20日ごろから無断欠勤し、連絡が取れなかったといい、同署は住所不定で野宿生活をしていたとみている。

容疑は同日午後0時55分ごろ、東北町の宗教法人敷地内のほこらから、現金約500円を盗んだとしている。

県人事課によると、増田容疑者は97年4月に採用され、09年4月に現職場に異動し、障害者手帳の申請手続きなど、身体障害者に関わる業務を担当していた。八戸市内で1人暮らしをしていたが、9月20日ごろから無断欠勤し、同22日に青森市内の家族が青森署に捜索願を出していた。同課は「勤務態度からは、なぜ無断欠勤したのか不明」とし、処分については「本人と話をし詳細が判明した段階で厳正に対処する」としている。
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この記事のあと、本人の談話として、「何をしてもうまく行かず、自暴自棄になった」と話しているそうです。また過去にも無断欠勤で2度の懲戒処分を受けていたということがわかっています。

この事件ですが、ポイントは2つあります。

●15年間、公務員を続けている人が、突然、野宿生活へ転身した、つまりホームレスになったということ。
●八戸市内で1人暮らしをしていたが、9月20日ごろから無断欠勤し、同22日に青森市内の家族が青森署に捜索願を出していた。

さい銭泥棒でつかまるまで1か月以上、アパートへ戻らずに野宿をしていたということですが、10月の青森は寒く、野宿には堪(こた)えるはずです。ここが不思議です。寒くなかったのでしょうか。感覚がマヒしていることも考えられます。

また無断欠勤したため本人へ連絡がつかないので、職場から実家あるいは兄弟へ安否の連絡が行ったのでしょう。つまり本人と原家族は普段から繋がりはあったのでしょう。そうすると、本人は孤立していたわけではなかったように思われます。

警察へ捕まったあとの本人の談として「何をしてもうまく行かず、自暴自棄になった」とあります。実際に何があったかのかはわかりませんが、人間関係をうまく結べない日常生活が浮かんできます。過去にも2度無断欠勤しているということですので、この生きづらさは最近のことというよりも、若い頃からずっとあった(あるいは生まれたときから)と想像できます。

ここまで見てくると、この人は、軽度の知的障害があるのではないかと推測できます。知的障害の一番の生きづらさは、その障害ゆえ、人間理解が幼稚であるということです。人間理解が幼いので対人関係において失敗することが多くあります。それが何をしてもうまく行かないことにつながっていきます。

家族関係が劣悪な場合、虐待をベースとした解離性障害(解離性遁走)もあり得ると思いますが、疾走2日後に家族が通報していることから家族関係はそれほど悪くないと思いますので、知的障害の線が濃厚になってきます。

この人の仕事は、役所で申請手続き業務をしています。申請業務は、人の話をよく聞かないとできません。人の話を聞くということは、理解をしていくうえで、高度な抽象的な作業が伴います。ここがうまくできなくて、申請に来た人からのクレームも重なったのかもしれません。以前の部署についてはわかりませんが、その前の仕事ではうまくいっていたのでしょう。つまり対人関係の仕事ではなかったかもしれない、ということです。それが15年、公務員を続けられた理由かもしれません。それが2年前、ストレスを感じてしまう部署へ移動になってしまった。そういうふうにも読み取れます。

そして「何をしてもうまく行か」なくなった場合、普通は、うつっぽくなって上司に相談したりするのですが、この人は知的問題があったため、上司に相談するということさえ思いつかず、またうつにもなることもできなかったのでしょう。うつになるには葛藤を自分の中に抱えなければならず、高度な知能が必要なのです。

地方公務員になれたので(たぶん初級でしょう)、この人のIQは、70前半くらいではないかと思われます。愛の手帳(療育手帳)4級がもらえるかどうか、ギリギリのところでしょうか。公務員試験のときは、かなり頑張ったのだと思います。偉かったと思います。

さて、ホームレスと知的障害についての統計があります。それによると、IQ80未満は53%, IQ70未満は34%だそうです。IQ80というと普通と軽度知的障害の間の境界域と呼ばれるところですが、この境界域の方々のかかえる生きづらさ、普通の人とは違う理解のズレというのは、なかなか社会的に理解されていない現実があります。

実際、境界域というのは、臨床的には、IQ90くらいまで入れても良いのではないかとさえ思います。そうすると53%よりもっと高い比率で、ホームレスの大多数の人々は人間理解が幼稚であるということになります。ここに社会援助から漏れてしまった人々の悲劇があるように思います。

□ホームレスと知的障害に関する統計
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2010年3月2日 毎日新聞

東京・池袋で臨床心理士らが実施した調査で、路上生活者の34%が知能指数(IQ)70未満だったことが分かった。調査グループによると、70未満は知的機能障害の疑いがあるとされるレベル。路上生活者への別の調査では、約6割がうつ病など精神疾患を抱えている疑いも判明している。調査グループは「どうしたらいいのか分からないまま路上生活を続けている人が大勢いるはず。障害者福祉の観点からの支援が求められる」と訴えている。

調査したのは、千葉県市川市職員で路上生活者支援を担当する奥田浩二さん(53)ら臨床心理士、精神科医、大学研究者ら約20人。池袋駅周辺で路上生活者を支援する市民団体と協力し、本格的な研究の先行調査として昨年12月29、30日に実施。普段炊き出しに集まる20~72歳の男性168人に知能検査を受けてもらい、164人から有効回答を得た。

それによると、IQ40~49=10人▽IQ50~69=46人▽IQ70~79=31人だった。調査グループは「IQ70未満は統計上人口の2%台とみられることからすると、10倍以上の高率」としている。先天的な障害か、精神疾患などによる知能低下なのかは、今回の調査では分からないという。

調査グループは、IQ40~49は「家族や支援者と同居しなければ生活が難しい」▽50~69は「金銭管理が難しく、行政や市民団体による社会的サポートが必要」▽70~79は「日常生活のトラブルを1人で解決するのが困難」と分類している。
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おなじ調査ですが、別な情報が盛り込まれている記事も紹介しておきます。実施された知能検査は簡易知能検査なので、IQにはそれなりの誤差があるでしょうが、研究の結論に影響を及ぼすものではないでしょう。

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2010年5月17日付朝日新聞朝刊社会面から

池袋駅周辺で路上生活を送る人たちを支援する研究チーム「ぼとむあっぷ」が、昨年末に調べた。本人の同意が得られた167人を対象に面接調査や簡易知能検査をした。平均55歳で全員男性。最終学歴は小学校が2%、中学校が56%だった。

その結果、軽度の知的障害がある人が28%、中度の障害の人が6%だった。知的障害が軽い人の精神年齢は9~12歳程度で、ものごとを抽象的に考えるのが難しい。中度では6~9歳程度で、周囲の助けがないと生活が難しい。

チーム代表の精神科医・森川すいめいさんによると、周囲に障害が理解されず、人間関係をうまく結べないことで職を失うなどの「生きづらさ」が、路上生活につながった可能性があるという。知的障害により生活保護の手続きを自発的に取ることができなかったり、精神疾患により気力が下がったりして、路上生活から抜け出せない現状がある。森川さんは「障害に応じた支援策が必要」と指摘する。(岡崎明子)
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キーワード<療育手帳>
知的障害者を対象に交付される手帳。法律で決められた制度ではなく運用は自治体に任せられている。「愛の手帳」(東京都など)「みどりの手帳」(埼玉県)など都道府県ごとに呼び方が違う。申請場所も児童相談所、市区町村など、自治体により異なるが、介護や福祉のサービスが受けやすくなる仕組みを取り入れているところもある。

◆発達障害を広くみていくと

発達障害とは、精神医学的には、知的障害、学習障害(LD)、注意欠陥多動性障害(ADHD)、自閉症スペクトラムの4つに分類されます。自閉症スペクトラムとは広汎性発達障害とも言われ、自閉症やアスペルガー障害などが含まれます。福祉関連の法律で発達障害者支援法というものがあり、その中で、発達障害として定義されているのが、学習障害(LD)、注意欠陥多動性障害(ADHD)、自閉症スペクトラム(広汎性発達障害)なので、知的障害を外して考える人もいるようですが、臨床的には知的障害を含めたものが発達障害になります。

またこの4つの分類は、心理学的にみると大きく2つの群に分かれます。人間理解が幼い人々と、人間理解が異質な人々です。知的障害、LD、ADHDが前者で、自閉症スペクトラムは後者です。知的障害、LD、ADHDに幼い感じの人が多いのはそのためです。

発達障害者支援法では、精神医学の知見を援用して、発達障害は「脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するもの」(2条1項)と定義されています。脳機能の障害という指摘は、現場で彼らを支援している人なら異論を唱える人はいないでしょう。常識となっていることです。

しかし、この常識が常識として通用しない世界があります。それが政治の現場です。2012年の12月時点において、政府がどのように発達障害をとらえているかについて、自民党と維新の会について取り上げてみます。

□自民党の誤解

自民党総裁の安倍氏は、親学推進議員連盟の会長をやっています。この親学推進協会は、日本の伝統的な子育てをすれば発達障害を予防できると考える団体です。勉強会では、アスペルガー症候群などの発達障害について、親の子育てに原因があるとした資料を配布しているようです。

親学では、発達障害(特にアスペルガー)は治療可能であるとしており、児童の二次障害が幼児期の愛着の形成に起因するとした考え方を推進していますが、幼児期の愛着形成に起因する問題は、発達障害ではなくて被虐待児に関係してくる問題です。幼児期の愛着形成は重要なものですが、それが阻害されて問題が現れてくるのは被虐待児なのです。脳の異質的な発達ゆえ、アスペルガーの児童には、そもそも愛着を形成することができないので、それを問題にしようにも問題にできないのです。

ですから親学では被虐待児のことを扱えばいいのに、色気を出して発達障害児を扱おうとするから変な議論になってしまうのです。ふろしきを広げすぎてしまったわけです。もう少し狭い範囲でやればいいのです。

安倍氏がここを見誤っている限り、自民党による発達障害に関する政策は、頼りのないものにならざると得ないでしょう。

□維新の会の変調

維新の会も、2012年5月、親学の視点から「家庭教育支援条例」案を大阪市議会に提出しましたが、批判を受けて撤回しています。その後、橋下氏は「発達障がいの主因を親の愛情欠如と位置付け、愛情さえ注げば発達障がいを防ぐことができるというのは科学的ではない」といったコメントを出しています。

なんでもすぐに飛びつく橋本氏ですが、こちらはすぐに否を認めて撤回しています。失敗をすぐに訂正できるのは、彼の知的能力の高さを示していますが、もう少し十分に検討してから政治の場に乗せてもらいたいと思います。橋下氏は思いつきが多いので仕方のないことかと思いますが、その慎重のなさが命取りにならないことを祈るばかりです。(2012年最大の彼の思いつきは石原氏との合流でしょうか。)

さて、橋下氏ご本人に関しては、弁護士もTVタレントも政治家もやっていて典型的なマルチ人間ですが、どれが彼の社会的なアイデンティティか、いまひとつ分かりません。こういう人はその役に飽きると、また違う顔を持って登場するものです。こういう生き方は、能力があるからできるのだという意見もあるでしょうが、能力だけでは計りしれないフツ―の人とはちょっと違う感覚を覚えます。つまりフツ―とはズレている感覚です。このズレは、彼が成長過程で獲得した性格から来るものか、あるいはある種の特異な環境に置かれたことから来るものか。彼の生い立ちを考えると、たぶん後者のように思えます。ということは、このズレは、彼が心理発達上獲得していったものではなく、環境への適応において何かしらの支障があったということです。そうすると、このズレも彼にとっては生きていくうえでは必要なもので、このズレこそ、彼のアイデンティティの正体であるということです。こういう生き方をする人は10人に1人くらいはいます。ズレていないと自分でも納まりが悪くて気持ち悪いのです。落ち着かないんですね。こういう人はフツ―になろうとしなくてもいいのです。社会に適応しない自分を、ズレているまま肯定していくことが幸せになる秘訣です。

話がどんどんズレていくようですが(笑)、政治家になろうとすること自体、フツ―とはズレているように思います。フツ―の人は政治家になんてなろうとはしない。ということは、政治家にはフツ―感覚のない人が少なからず居るということです。そういうこともあるから、われわれ国民はしっかりと政治家を見ていなければいけない。そのために選挙はあるのでしょう。

でも別に選挙に行きましょうと煽(あお)っているわけではありません。私自身、あまり選挙は行っていません。気が向くと行くくらいです。でも私も大人ですから、表面上は選挙行かなきゃというそぶりをします。うちの子どもたちは成人しているのですが、選挙行かないですね。それをほんの少しだけ心配したりしている親です。この心配はそぶりではなく、本気が入っています。二十歳越えているんだから行けよな、という親の心配です。そうは思いながらも、政治家はフツ―じゃないと思っている自分がいます。この二つは私の中では葛藤していません。葛藤しているようにみえて、共存しています。それはそれでいいのでしょう。

話はずいぶんズレました。たぶん私は橋本氏以上にズレているのでしょう(笑)。

□自閉症スペクトラムという異質性

自閉症スペクトラムは、発達障害の中でも特別な集団と言えます。何が特別か?人間理解について異質なのです。一般とは違う、彼らなりのルールがあるということです。無秩序で生きているわけではありません。一般的な社会的なルールではない、彼らなりの特別なルールがある、ということです。

例えば、彼らはぶんなぐられたら痛い、ということは知っています。しかし、相手をぶんなぐったら相手は痛がる、ということは理解できません。普通の人は、殴られて自分が痛ければ、相手も殴られたら痛かろうということは瞬時に理解できますが、自閉症スペクトラムの人々はそれが理解できないのです。神田橋は、この現象について、「自分が殴られて、ここに相手の拳骨があたって、自分が痛いと感覚するその情報処理過程と、こっちが手を出して、相手にあたって、相手が痛かろうと想像する、その情報処理過程とが重なる部分はほとんどない。ミラーニューロンという話があるが、そんなものが備わっていないコンピュータを考えれば、2つの情報処理過程は全然別のことである。われわれの多くは不思議なことにこの二つを重ねあわす能力を生まれながらに持っているため、自分にされたことを、相手に同じようにしたら、相手も同じようになると理解できる」と言っています。自閉症スペクトラムの人は、殴ることと殴られることは、全く違うルールで動いていると、コンピュータのように理解してしまうので、殴ると相手が痛がるということを想像できないのです。これが人間理解の異質性です。脳の中では、殴ることと殴られること、それらのルールが類似のものであると考えることができないのです。

また、神田橋は、自閉症スペクトラムについて、「わからない」という感覚と「不器用」ということをあげていますが、これらはどちらも人間理解の異質性に関係しています。

以下、神田橋の講演記録から要約してみます。

生体が受け取る情報は五感のいろいろなところを通って来て、普通の人はそれをどこかで統合するわけだが、自閉症のように統合できないと「何だかわからない」という気分が生じる。人を刺すと、血が出て、死んでしまうということはわかるけれど、自閉症の人は、殺す瞬間に、そういうことがいろいろと合わさって、ある1つの感興が生じることはピンと来ない、何か納得できない、そういうわからなさ気分が常につきまとっている。

わからないというのはインプットの混乱であり、不器用はアウトプットの混乱である。でも医療現場では「かわらないことがいろいろあるでしょう」とは、傷つくので聞けない。でも「不器用でしょう?」と聞くのは、愛嬌がある。

不器用でいちばん多いのはお手玉ができない。動いているものを目で見るのは視覚。それに自分の体の動きをあわせないといけないので、これは全く別の機能である。また「赤上げて、白上げないで、赤下げない」という遊びも全くできない。頭がボーっとなってフリーズする。これは診断に使えるけれども、かわいそうだからできない。だから通常の面接では次の話を聞いている。

小さいときから玉子焼きが大好きな子どもがいます。お母さんが久しぶりにその子のために玉子焼きを作りました。子どもがおいしそうに食べているので、お母さんはうれしくなって「おいしいでしょう?」と話しかけました。すると突然、子どもがお母さんを殴りつけました。

この子の殴りつけた子の気持ちがわかるかどうかを聞く。(知的障害のない)自閉症の三分の一はわかると言う。残りの三分の二も説明すればわかるという。自閉症でない人は、説明されてもピンとこない。

答えは、「おいしく食べていたのに、お母さんが話しかけたから味がわからなくなった」から。お母さんが邪魔をしたから。自閉症の人は、何か別のテーマだったら無視できるのです。例えば、今日の授業のような話だったら、普通に会話を続けることができる。しかし、お母さんが話した内容は、同じ玉子焼きの味のテーマだったので、現在、味覚を感じている脳の部分へそれが侵入してくるのを防げずに混乱が生じてしまったのです。ここまで説明されてもやっぱり分からない人は分からないと思います。このような異質性が、自閉症スペクトラムの人々の持つ苦しさなのです。

この卵焼きの話で、高機能自閉症の方がおっしゃっていたことを紹介しておきます。

「おいしい?」と聞かれると、聞かれた瞬間に味が消える。美味しさを満喫しながら、美味しいねと返事ができたらどんなに幸福なことか。自閉とは、上手く名づけたもんだな。味ひとつとっても、味わう時に自分の中にこもらなきゃならないから。ひとりごとでなら「美味しいなぁ」と言っても味は消えない。実に変な脳みそだ。

□普通学級でも特別支援教室でもどちらでもいい

そのような異質性があるために、彼らは人間を極端に怖がります。普通の人が感じるように理解できないので、世界が怖くなるのは自然なことですね。そのために、普通学級での授業が困難になるときがあります。

しかし、その子が安心して学べるのであれば、普通学級でも特別支援教室でもどちらでもいいのです。親の意思で決めるものでもありません。子どもが周りから理解されていない悲しみをもって学校生活を送っているのであれば、それが社会不適応につながる可能性もある。ですから、何がなんでも普通学級で、というのは、親のエゴと思って、特別支援教室へ通わす。こういう場面は普通学級がいいようだ、こういう場面は特別支援教室がいいようだと、細かくこの子の特性を見ていって、普通学級に居ながら、特別支援教室へ通級してみる。またはその逆をやってみる。そういうフレキシブルな対応が子どもにとっては嬉しいのです。このへんも専門家の意見を聞きながら、一番は子どもの気持ちを優先しながら、子どもに意思を確認しながら、やるといいでしょう。

親としては、少しは難しいところでやってみて能力を発揮させたいと思ってしまいがちですが、ここはその考えを捨てて、実力より少しやさしめの環境に入れてあげることがその子にとってはいいのです。

子どもは子どもを差別したりはしません。(差別するようにみえる子は、家庭内での何かのストレスを抱えている子です。)子どもは、発達障害児の行動を個性の1つとして見ます。それだから変だとは思ったりしません。「○○ちゃんはかけっこが早い」「○○ちゃんはマンガを描くの上手」そういう延長で、「○○ちゃんは突然叫んだりする」ととらえます。「○○ちゃんは発達障害があって」と考えるのは大人だけです。

もし、発達障害の子とトラブルが生じた場合は、先生や保育士に相談するといいでしょう。こんなことがあって子どもが困っているようなので、気にかけてやってください、と言うだけです。彼らはそういう対応の専門家です。なんとか幼稚園や学校の現場で対応してくれるでしょう。まかせておきます。家庭では、子どもに対して「○○ちゃんは、突然人間が近寄ってくると怖いんだって。犬が近寄ると怖がる子もいるよね、それと一緒だよ。」と説明しておくと、子どもも納得して気をつけるようになるでしょう。

参考文献:
難治症例に潜む発達障害(神田橋條治・講演録)
「育てにくい子」と感じたときに読む本(佐々木正美)

◆発達障害と誤診

今度は、発達障害と誤診されているケースについて考えてみます。

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<発達障害>小中学生61万4000人 文科省調査・推計
毎日新聞 12月5日(水)2012年

普通学級に通う公立小中学生の6.5%に発達障害の可能性があることが5日、文部科学省の調査で分かった。40人学級で1クラスに2~3人が「読む・書く」が苦手、授業に集中できないなどの課題を抱えていることになる。調査対象地域の44都道府県(岩手、宮城、福島の3県を除く)を基に推計すると約61万4000人になる。このうち約4割は特に支援を受けておらず、専門家は「教員の増員などの手当てが必要」と指摘している。

調査は今年2~3月、学習障害(LD)▽注意欠陥多動性障害(ADHD)▽高機能(知的発達の遅れのない)自閉症--の発達障害の主な3要素について、44都道府県の普通学級に通う計5万3882人を抽出し、担任教諭が回答した。

「文章の要点を読み取れない」「簡単な計算ができない」などLDがあり、学習面で著しい困難がある小中学生は4・5%。「教室で離席する」などのADHDが3.1%。「周りの人が困惑することを配慮せず言う」などの高機能自閉症は1.1%。一部はこれらが重複していた。

発達障害とみられる児童生徒を学年別に見ると、小学1年が最多で9.8%。成長に伴い障害が改善され、小学4年7.8%▽中学1年4.8%▽中学3年3.2%だった。

また、38.6%は「個別指導」などの支援は受けておらず、学校内で支援が必要と判断された児童生徒(18.4%)でも6%が無支援だった。

調査に協力した大南英明・全国特別支援教育推進連盟理事長は「医師らで構成される専門家チームの設置や教員の増員などの対策が必要だ」と訴えた。

同様の調査は02年にも5県から約4万人を抽出して実施。発達障害の可能性がある子供は今回より0.2ポイント低い6.3%だった。
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すいぶんと発達障害が増えてきていますね。これは発達障害の啓蒙により学校の先生などが発見することが多くなったことに起因します。啓蒙の成果だとは思いますが、実は、小学生の場合、医師による診断で、発達障害と誤診されているケースも少なくありません。発達障害でなければ何なのか。実は虐待によるケースなのです。虐待が見落とされて、発達障害と誤診されていることもあるのです。

虐待を受けて育った子ども(被虐待児)は、親から愛着をもらうことができなかった子どもです。愛着は人間関係の基本であり、それによって他者との共感が可能になり、世界とのつながりを確認することができます。それがはじめから途切れているのです。ですから、世界や社会の見え方が普通の人とは異なります。性虐待を受けてきた方ですが、ときどき話しをしていると、記号のようなものとして聞えてきて意味をなさない、とおっしゃっていました。知能の高い方でしたが、会話が音として聞えることがあるというのです。このように被虐待児の世界は、普通の世界から断絶します。それによって、世界は怖いものだという気持ちがわきます。そして小学校低学年の頃は集団に溶け込むことができず情緒が不安定になります。急に席をたったりします。それがADHDと誤診されるのです。また集団行動ができなかったり、人と仲良くやれなかったりすることから、自閉症スペクトラム(広汎性発達障害)と誤診されたりします。本当は世界が怖いので、人に近寄られると怖いから人を避けているのです。

子どもは危険からのがれるために本来は多動でないと生きていけません。もともと多動なのが子どもなのですが、情緒不安定な子どもは輪をかけて多動です。それによってADHDと診断されてしまう可能性が高いのですが、虐待がベースにある場合、これは誤診なのです。

先生に少し注意されると教室から脱走して逃げる子がいます。こういう子は、ADHDと誤診されがちです。本当は逃げなくていいのですが、母親から叱られるという体験をしてこなかった子には、叱られるということが理解できないために逃げるのです。この「母親が叱る」ということですが、母親が軽度知的障害(IQが50~80)だと適切な場面で適切に叱ることができないのです。(叱らなければと思いつつ叱れない場合は、このケースから除外されます。叱らなければ、ということがわかっているので、知的障害ではありません。知的障害の親は、それすらも理解できないのです。)こういう場合も、被虐待児のケースと似ているのです。

安倍氏の親学ですが、親学は親を鍛えるのが目的なので、では親学によって虐待の親を鍛えればよい、という議論にもなるかもしれませんが、虐待する親は鍛えることができないのです。ここで一度虐待とは何かを確かめておくと、虐待とは、継続的に、身体的・性的・心理的暴力あるいは養育放棄が行われていることです。そういうことをする親は、実は鍛えることができないのです。なぜならそのような親は発達障害(IQが50~80の軽度知的障害)のことが多いからです。じゃあ、どうするか。子どもの味方につくのです。子どもをなんとかサポートするのです。そこにしか道はありません。子どもの命が危ないときのみ、親と子を分離させ、子どもを児童養護施設などで育てます。さしせまった命の危険がない場合は、親をどうにかしようとせずに、子どものサポートに回ります。施設の寮母さんが、子どもに愛情をかけてあげる。そうすることで子どもは親から得られなかった愛着を学んでいくことができるのです。実際の親からもらう愛着を一次愛着、親以外の人からもらう愛着を二次愛着と呼びますが、この二次愛着がしっかりしていれば、親から愛着をもらわなくても生き延びていくことができるのです。愛着は、親からもらうだけのものではないのです。

◆虐待か、虐待ではないか

虐待についても見誤まるケースがあります。

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1歳児、ごみ袋に入れ殺害…容疑の母親を逮捕 神戸
毎日新聞 12月15日(土)10時58分配信

1歳11カ月の長男を家庭用ごみ袋に入れて放置し、殺害したとして、兵庫県警兵庫署は15日、神戸市兵庫区大開通8、主婦、佐々木恭子容疑者(34)を殺人容疑で逮捕した。ごみ袋に入れたことは認めているが、「殺すつもりはなかった」と、殺意は否認しているという。

逮捕容疑は、14日午前10時ごろから午後4時50分ごろまでの間、自宅マンションで、長男の博一(ひろかず)ちゃんを家庭用ごみ袋に入れ、袋の口を結んで放置し、殺害したとしている。

同署によると、14日午後4時半ごろ、佐々木容疑者が「息子が息をしていない」と119番通報した。佐々木容疑者は「昼食を食べさせて寝かしつけ、自分も寝てしまった。気がついたら、リビングに食べ物を散らかして汚していたので腹が立って袋に入れて玄関に置いた」と説明。いつ博一ちゃんを袋に入れたかは「時間の感覚がなく、覚えていない」と話しているという。

佐々木容疑者は会社員の夫(33)と長女(5)の4人暮らし。事件当時、夫は仕事で外出しており、自宅には他に長女がいた。博一ちゃんの体にあざなど日常的な虐待の痕跡はなく、夫は「ごみ袋に入れるのは見たことがない」と話しているという。神戸市こども家庭センター(児童相談所)は、博一ちゃんについて虐待などの相談や通報などは受けていなかったとしている。

博一ちゃんは今月7~10日、気管支炎の疑いで神戸市内の病院に入院し、14日朝も経過観察で受診していた。
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子どもは、母親にごみ袋に閉じ込められて、窒息していく中、母親を恨むこともなく、お母さんごめんなさい、もうしないからここから出してと叫びながら息絶えていったと思います。母親にそうされたことへの絶望感、ショックもあったでしょう。とても痛ましい事件です。

この事件、母親の行動は虐待だったのでしょうか、あるいは事故だったのでしょうか。虐待とは、その暴力が「継続的」に行われていることです。長期にわたる身体的・性的・心理的暴力あるいは養育放棄が行われているとき、その行為を「虐待」と呼ぶのです。この母親の場合、日常では児童相談所への通報もなかったし、なによりも子どもに対してのあざや傷がなかったといいます。また、気管支炎で入院させたり受診させたりしてちゃんと世話をしています。性的・心理的暴力あるいは養育放棄はどうだったのでしょう。こういう情報は隣人や保育所からの子どもの行動観察などである程度は把握できますが、そういう事実がニュースに出てないということは、そういうこともなかったと判断しても良いでしょう。すると、この母親には、継続的な虐待行動はなかったと考えることができます。

では、なぜこの母親はごみ袋に子どもを入れてしまったのでしょう。母親はごみ袋に子どもを入れたときのことをよく覚えていないと証言しています。いつ子どもを袋に入れたかは「時間の感覚がなく、覚えていない」と証言しています。ここに母親のこの暴発的な行動の謎の答えがあります。母親は、このとき解離していたと思われます。記憶が失われているため、解離性健忘という症状でしょう。解離性健忘とは解離の中でもかなり特異な状態です。解離症状は、離隔と区画化という2種類に分けられます。柴山によると、離隔とは空間的変容であり、気配過敏・対人過敏・感覚麻痺・現実感喪失・離人症状・体外離脱・自己像視などを主な症状とします。自分と自分、自分と他人という空間的関係の変容です。区画化は時間の変容であり、時間の流れのなかで記憶が途切れたり、「私」が入れ替わったりします。健忘・遁走・交代人格・転換症状などです。区画化のほうが、離隔よりも重篤な病態と捉えられています。このニュースの母親には子どもを袋へ入れたときの記憶がないので、解離性健忘という重篤な解離性障害が起きていたことになります。

この母親はどのようにして子どもをごみ袋に入れてしまったのでしょうか。母親が昼寝から目覚めると、子どもが食い散らかしたあとを見つけます。そのとき母親は自分の子ども時代にフラッシュバックします。自分は子どものころ食べ物を落としたりすると母親にひどく叱られていて、ときどきゴミ箱に体ごと入れられていた。「こんなことをする子どもは要らないので捨てる」と言われながら、怖い思いをしていたのかもしれません。それが急にフラッシュバックして自分がごみ箱に入られている感覚がよみがえり、母に殴られる恐怖と、言うことをきかない息子への怒りの中で、怒りを我慢できずに爆発させてしまい、もうろう状態となり、その混乱の中で目の前にいた子どもを近くにあったごみ袋に入れてしまったのでしょう。「いつ子どもを袋に入れたかは、時間の感覚がなく、覚えていない」というのは、このとき母親は、フラッシュバックのもうろう状態の中にいたのです。その後、母親のもうろう状態は継続して意識が飛んだままだったのでしょう。気がついたら数時間たっていた。そして子どもがごみ袋に入っていて息をしていないことに気づく。何がなんだか分からないまま自分で警察へ通報した。怒りを表現できずにずっと押し殺してきた母親のつらさがそこにはあるのでしょう。たぶん、この母親こそ、実の母親に虐待されてきた被虐待児だったのでしょう。

ここで「虐待の世代間連鎖」という亡霊がたち現れるかもしれません。この母親も虐待されてきた、だから同じように自分の子どもを虐待してしまったのだ、という誤解です。ここを読み解くには、虐待の世代間連鎖はない、という視点に立ち返らないといけません。

世代間連鎖は、元はと言えば、ナチの強制収容所から生還した人々が結婚して生んだ子どもたちの研究からスタートしています。その研究では、子どもたちは、自分は知らないはずの親の味わった恐怖におびえて心理的な障害を発症していると報告しています。このレポートをよりどころにして、家族療法の研究家がトラウマ理論へ(強引に)展開して虐待と世代間連鎖をひもづけしました。そこには認知心理学の学習理論のバックアップもありました。親のやることを子どもは無意識的に学習するものだ、と。しかし、強制収容所の恐怖と虐待を結びつけたところに無理があるのです。虐待は、親あるいは親にかわる人からの暴力です。子どもは親へ従わないと生きていけないものですから、いびつかもしれませんが、そこには親子の愛着関係があるわけです。しかし強制収容所のナチス側とユダヤ人側には何の愛着関係もありません。始めから、そういう無理がある概念なのです。

また、トラウマ理論として一番読まれているハーマンの「心的外傷と回復」の児童虐待の章にも、次のような記述があります。彼女も、虐待は連鎖しないことをトラウマ理論の見地から言及しているのです。『一般に思い込まれている「虐待の世代間伝播」に反して、圧倒的大多数の生存者は自分の子を虐待もせず放置もしない。多くの(児童期虐待の)生存者は自分の子どもが自分に似た悲しい運命に遭いはしないかとしんそこから恐れており、その予防に心を砕いている。』

ここまで見てくると、この事件は、虐待ではなく事故であったと見えてきます。ふだんからあざなどの継続性が見られず、ごみ袋にいれていたこともなかったということから、これは虐待事件ではありません。暴発的に起こった母親の怒りによる解離状態に起こった事故です。取り返しのつかない悲しい事故が起きてしまったのです。

このような事故を未然に防ぐには、自分の中に得体のしれない怒りに気が付いたら、できるだけ早く虐待を扱える相談機関に相談することです。このような母親は、自分が子どものころから日常生活の中でずっと孤立しています。彼女にとって世界は恐怖以外の何者でもないのです。その恐れの中で、ずっとひとりでがんばってきた。そのことを相談する。そして自分の怒りや孤立感の源泉を理解し、それをカウンセラーに受容してもらう。そういう気持ちのやりとりをカウンセラーとすることで、自分の中に愛着感を見つけていくことができるようになります。自分を受容することができるようになります。これは一人ではできないので、必ず相談機関へ相談してください。

虐待を受けてきた人々は、自責感はあるのですが(他人のせいにはしないのですが)それが比較的に薄いことも多いです。新型うつ病と呼ばれるうつ病でなく、従来型の「本当の」うつ病の人々が持っているような自責感、罪悪感よりは薄い。その薄さは、親からの共感性、基本的な安心感をもらうことができなかったために、他人とどのように関係を作っていったらいいのかが分からないことに起因するものです。ですから裁判の場では、息子を殺したという罪悪感の薄さが裏目に出て、比較的重い刑罰を受けることもあるでしょう。猛反省すべきなのに反省が足りないと見えてしまうのです。しかし、猛反省できるのは「普通に」共感を親からもらって育った人なのです。この母親はそれをもらっていないために、今の時点では罪の意識はちゃんとあるものの、猛反省を表現するチカラはないのです。また、虐待を受けてきた人は、厳しい成育環境を生き延びてきた人々ですから、自分に対してものすごく厳しいです。ですから自分を弁護するようなことは口にしません。もし裁判の場で自己弁護をしていたら、それは自分のためではなく、自分のために頑張ってくれている弁護士の先生のために、少しは自分も彼らの役に立たないといけないと思って自己弁護をしたりするのです。

この母親に問題が起こるのは服役してからです。刑務所ではいろいろなサポートを受けるでしょう。ミーティングもあるでしょう。そのサポートを通じて、この人が幼児期に得られなかった愛着が、薄くではありますが、ゆっくりと回復してくる可能性があります。それは虐待からの回復を示しますが、愛着の獲得とともに共感や安心感も出てくるため、それが逆に、この人の罪悪感、自責感を増大させます。自分はなんてことをしてしまったのだろう、実の子を殺してしまったという深い罪の意識に沈みます。これは、この母親が普通の共感性を身に着けてきたということですが、そのときに自殺衝動が高まります。ここを刑務所の方々がちゃんとケアできるのか、ちゃんとケアしてほしいと思います。ここにこそ、カウンセラーの存在意義があると言っても過言ではありません。ここを乗り越えれば母親には再犯(実際には、繰り返す事故)の危機はなくなります。

次も2012年12月の新聞からです。事件は2010年に起きました。

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高裁も一蹴 2児放置・餓死の25歳ママが上告する「理由」
配信元12/22 12:29

単なる詭弁(きべん)か、それとも倒錯した愛情なのか。今月5日、幼児2人を餓死させたとして殺人罪に問われ、大阪高裁で控訴が棄却された中村(旧姓下村)早苗被告(25)は、控訴審で「2人の子供のことは今でも愛している」などと話す一方、殺意を否定した。だが、裁判所は殺人罪の成立を認定、懲役30年(求刑無期懲役)が相当と判断した。十分な食事を与えず、約50日にわたってごみや汚物まみれの部屋にわが子を放置し、裁判所に「むごい」とまで言わしめた行為。それでもなお、中村被告は「理解されなくても『死んでほしくなかった』という気持ちを最後まで訴えたい」と周囲に語り、最高裁に上告した。

□「殺していない」と否認

「同じような事件で被害に遭う子供を出してほしくない。私にも何か伝えられることがあるのではないかと思った」

こうした理由で控訴し、殺意を否認して臨んだ今月5日の控訴審判決公判。大阪高裁で一番大きい201号法廷は満席となった。髪を頭の上でまとめ、黒い洋服姿で証言台の前に立った中村被告に、森岡安広裁判長が判決の主文を宣告した。

「本件控訴を棄却する」

言い渡しの瞬間こそ、肩を少し震わせた中村被告だが、判決理由が朗読される間は落ち着いていた。今年3月の1審大阪地裁判決のころよりふっくらした印象だった。

判決によると、中村被告は平成22年6月9日、長女の桜子(さくらこ)ちゃん=当時(3)=と長男の楓(かえで)ちゃん=同(1)=に十分な食事を与えなければ死亡する可能性が高いと知りながら、2人を自室に閉じ込めて外出。帰宅せずに放置し、同月下旬に餓死させた。

中村被告は1審段階から「殺害したというのとは違う」と殺意を否認。しかし、1審判決は殺意を認定した上で「幼い子供がゴミと糞尿(ふんにょう)にまみれた部屋で絶望の中、空腹にさいなまれながら命を絶たれたのは、『むごい』の一語に尽きる」と厳しく断じた。

判決を不服とした中村被告は控訴。控訴審初公判でも、衰弱した子供2人を食料のない自宅リビングに放置したことを「危険という認識はなかった」と述べ、改めて殺意を否定した。

弁護側も、中村被告が幼少期に実母から育児放棄されていた経験が犯行に影響しているとして、「虐待のトラウマで、対応が困難な状況になると意識を飛ばしてしまう傾向があった。子供たちが餓死する具体的な認識を抱くまでに至らなかった」と述べ、1審同様、保護責任者遺棄致死罪にとどまると主張していた。

□「私ね、取り返しのつかないことしてたの」

高裁判決は、改めて殺意の有無を検討するにあたり、判決理由の中で犯行前後の状況を、以下のように振り返った。

中村被告は21年5月に離婚した後、風俗店で働きながら子供2人を育て、22年3月、客の男性と交際を始めてほぼ毎日のように外泊するようになった。子供は十分な食事を与えられず、栄養が偏った状態で、5月中旬には表情に変化がなくなるなどしていた。

6月9日、約10日ぶりに帰宅した中村被告が子供たちに用意した食事は、コンビニの蒸しパン、おにぎり、手巻きずし、りんごジュースだった。

それらを自宅リビングに置いた後、中村被告は、子供たちが外に出ないようリビングと廊下の間の扉に粘着テープで目張りし、玄関に鍵をかけて立ち去った。

7月29日、勤務先の上司から「(被告の)自宅から異臭がする」との連絡を受け、約50日ぶりに帰宅。2人の子供が亡くなっているのを見た中村被告は上司にメールを送った。

《私ね、取り返しのつかないことしてたの。子供たちほったらかしで地元に帰ったんだ。それから怖くなって帰ってなかったの。今日1カ月ぶりに帰ったら、当然の結果だった》

こうした状況を踏まえ、高裁は「相当衰弱した子供を目の当たりにし、十分な食事を与えなければ生命が危険な状態になると認識していた」と指摘し、こう結論づけた。

「子供に2、3食分の飲食物を与えたのみで、自宅から出られない状態にした上で立ち去った。被告には短期間で帰宅するつもりはなかったと推認され、殺意があったと認められる」

□「最後まで訴える」と上告

判決理由の朗読を終えた森岡裁判長は中村被告に語りかけた。

「事件の重大性に照らして慎重に審理した結果、1審判決には誤りがなかったという結論です。積極的に子供2人を殺害するつもりではなく、未必的なものだったということです」

今年10月に中村被告と養子縁組した養父母は高裁判決後に記者会見し「厳しい結果と思うが、まったく想定していなかったわけではない。早苗もそう感じていると思う」と語った。

養父によると、1審判決後に、面会や手紙のやりとりを始めた当初は「どうしたら死ねるだろう」と話していたが、今は「生きて罪を償う」と心境に変化が現れ、子供2人が亡くなったことを悔やんで写経する日もあるという。

養父は「早苗は当時子供を捨てることもできず、保護施設に預けることもできなかった。彼女の心理状態では、子供を守る行為は部屋に残すことだったのではないか」と推し量る。

しかし、高裁判決は「被告には自己に都合の悪いものを避けようとする傾向がある。だが、だからといって、衰弱した子供に食事を与えないと死亡するという認識や、部屋に閉じ込めて放置した行為の未必的な殺意が否定されるとは到底考えられない」と一蹴した。

控訴審の判決直後、「どれだけがんばっても(殺意はなかったという)自分の気持ちは理解してもらえないと思う」と漏らしていたが、その後に「殺すつもりはなかったと最後まで訴えたい」と上告を決意。高裁判決から13日後の今月18日。中村被告は最高裁に上告した。

養父に対し、「子供には死んでほしくなかったと今でも思っている」と話したという中村被告。食料を与えられず、目張りした部屋に閉じ込められ、空腹と絶望感のうちに亡くなった2人の子供は、母親の弁解をどのように聞いているのだろうか。
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長い引用でしたが、この母親の臨床像をとらえるうえでは必要と思い、全文を載せました。

この母親には殺意はあったのでしょうか。私は、なかった、と思います。ではこの行為は虐待だったのか、虐待ではないのか。この行為は明らかに虐待です。ネグレクトですが、食事を与えず1ヶ月以上放置しているので、生命の危険に直結する重症度5の最高レベルの虐待です。

ごみ袋事件の母親のケースとは違います。今回の事件は、虐待であり、暴発ではありません。この問題が発覚しにくかったのは、母親はネグレクト以外の虐待はしていなかったのでしょう。だから周囲も気が付かなかった。この母親の知能はIQ50-60だと思われます。小学校低学年レベルです。子どもは産めますが育てることはできません。だから自然と、長期の継続的なネグレクトとなる。軽度知的障害は、境界域まで含めるとIQ50-85ですが、この母親の場合IQが低いと予測されるので(50-60)、虐待も緩慢な虐待となり、周囲が分からなかったのです。母親のIQが比較的高いと(75以上)複雑な思考ができるので、怒りも表出しやすくなり虐待の程度はひどくなりますから、周囲もよく分かるようになります。その場合は、児童相談所が介入して母子分離するため、子どもが救出される可能性が高くなります。

子どもが部屋から出ると危険だから目張りしたというのも、小学校低学年の児童の考えることでしょう。非常に考えが幼いということです。ここからもIQ50-60と推定できます。

弁護士は、この母親はかつて虐待を受けて育っており、その「虐待のトラウマで、対応が困難な状況になると意識を飛ばしてしまう傾向があった。子供たちが餓死する具体的な認識を抱くまでに至らなかった」と弁護しています。ここでは2つの誤解があります。

(1)たとえ虐待を受けていても、通常なら自分の子どもへの虐待はしない。しかし、世間ではそうは見ない。虐待を受けてきたから、自分の子にも虐待をするのだ、と見る。なぜそうなるのか?「虐待は世代間連鎖する」という誤解が一般化してしまっているから。

(2)意識が飛ぶというのは解離状態だが、解離していても通常なら子どもが餓死する認識はある。解離すると思考も停止するという誤解がある。また1ヶ月以上も意識を飛ばしておくことはできない。解離性遁走という症状があるが、この母親の場合そのような供述は得られていない。

「餓死する具体的な認識を抱くまでに至らなかった」というのは、解離の影響ではなく、弁論にもあるように「認識ができない」のです。つまり知的障害なのです。「衰弱した子供2人を食料のない自宅リビングに放置したことを危険という認識はなかったと述べ」るということ事態が、知的な発達の遅れを証明しています。

「2人の子供のことは今でも愛している」ということについてはどうでしょうか。この母の言うように、子どもを愛していたのは間違いないでしょう。知的障害の人は、愛着はあるのです。でもそれは、大人のような共感性が十分な愛着ではなくて、非常に子どものような、幼い愛着なのです。自分勝手な、身勝手な愛着なのです。その幼稚な愛によって、子どもを愛していたのでしょう。「殺すつもりではなかった」というのも、この母親の偽らざる気持ちなのだと思います。それも真実なのですが、普通の、親が子を愛するような愛ではなかった、ということです。それゆえ、子育ては始めから無理だったのです。

この子どもたちは早期に母親の元から離して養護施設で育てることができれば、普通に成長することができたでしょう。それだけに残念ですし、行政の今後の対応の改善につながればと思います。この子たちの冥福を祈ります。

参考図書:心的外傷と回復(ジュディス・L・ハーマン)

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