キレる大人

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最近はキレる人が多いですね。

子どものキレる話は、こころの発達の記事「学童期のきれる子について」を読んでください。

今回は大人のキレる人についてです。

外からの要因と内からの要因に分けて考えてみたいと思います。

まず外からの要因として大きなものは、1990年代から加速したインターネット社会です。インターネットはチュニジアやエジプトの政権交代にも主役の役目を果たしましたが、影の部分があります。その一つは、スピードを要求してくるということです。

インターネットというものは、携帯電話も含めて、対人距離を著しく縮めました。距離感が短くなった。同時にすぐに連絡できるという時間感覚も短くした。いま話題のフェイスブックなどのSNSなどはその最たるものです。これは何かをというとスピードが早くなったということです。インターネットというのは心理的に見ると、対人関係革命なのです。これを負の革命と言ってしまうと語弊(ごへい)があるかもしれませんが、真意は外してはいないと思います。なぜなら、この対人関係革命によって心の病は確実に増えました。ゆっくりさせてくれない。うつ病が増えている主因はここにあるのだと言いたくなるくらいです。けれど、この負の要因にもかからわず、インターネットは生活を便利にするので手放せない。このメルマガを配信できるのも負の革命のおかげです。インターネットというもの自体、このような葛藤があるわけです。現代は、この葛藤を生きているのだということを、きっちりとおさえておくことが大切です。

スピードの話に戻りますが、スピードは人を急(せ)き立てます。ゆっくり感じることを許してくれません。感情を十分に感じる、十分に味わう前に、前へ前へと人を押し出します。ここで自分の感情が十分大切に扱われずに、頭で考えたことだけでモノゴトを処理しようとしてしまいます。この行為を続けていくことで、自分の感情というものは疲弊(ひへい)して行きます。自分の感情などどうでもいいのだ、と頭が考えだします。そうなると、自分の頭に反して、心の側の反応として、大切に扱われないその感情自身が怒りをため込んでいきます。なんで大切に扱ってくれないのだ、という怒りです。感情が別の生き物のように怒りをため込んでいくのです。自分の頭に心が反旗をひるがえすのです。

スピードを要求され、どんどんと感情(こころ)が縛(しば)られていくと、感情自体、窒息感を感じ始めます。感情は思います。このままでは息ができなくなって死んでしまうのではないかと。そして過呼吸が始まります。これがパニック障害です。パニック障害への治療は、スピードを落として生活をシンプルにすることを目指しますが、なぜそうするといいのかは、このことからおわかりいただけると思います。

またスピードは、どんどんと急かすので、自分の中(こころ)にためることを許しません。自分のこころの中にいったん納めるということは、葛藤を抱えるということであり、成熟した大人の条件の一つです。葛藤を抱えるというのはこころに余裕が必要です。その余裕を与えられないわけです。

だから非常に浅い思考で物事に反応しだします。こころに納める前に頭だけで反応して感情を外に出してしまいます。これがキレる大人の増加という社会現象を作り出します。スピードによって大人になりきれない大人が増えるわけです。

ゆっくりおっとりやる、スピードを落としてみる、ということは、自分らしく在るためには非常に大切な要素なのです。例えば、インターネットをやるときは、わざと手の動作を落としてみる。なかなか表示されないときは目をつぶって寝てみる。メールの返事をわざと遅く送る。そのように、わざと時間をかけてみるのです。スピードを要求される社会において、わざと遅くやるというのは、効きの良い治療薬のようなものです。

さて内的な要因としては抑圧の低さがあげられます。これは、社会的(外的)な抑圧が低くなったということだけでなく、個人が葛藤を抱えられなくなったということもあります。葛藤を抱えられないので、周りから見ると、こんなことで怒るのか、と予想がしずらい人間のように見えます。いつ怒るかわからない、つまり情緒不安定なように見えるわけです。周囲にはわけのわからない人という印象を与えてしまいます。

昔だったらホモセクシャルというだけで肩身の狭い思いをしてひたすら隠したりしていましたが、今はある程度はそういうことも容認されて、テレビではそれをウリに活躍している芸人も多いですね。他人と違うということを自分で宣言する抵抗は大きいですが、少しずつ社会も慣れてきているのでしょうし、カミングアウトする当人の生命力も大したものです。そのような社会的(外的)な抑圧が低くなったというのは、自分らしく生きられるチャンスが増えてきたということで悪いことではありません。むしろ、それをどんどんと利用して、マイノリティ(少数派)を生きる人はどんどんと輝いていってほしい。

ただ、この少数派容認もマスメディアに乗ってしまうと偏りが出ます。例えば2011年の現在、ホモセクシャルな芸人だけ注目されてレズビアンな人があまり出てこない。数としてはホモセクシャルよりも多いはずなのに出てこない。これはマスメディアによるマイノリティの操作が入っているのでしょう。自分に都合の良いマイノリティだけ認めてあげるよ、という操作です。根底にはマスコミの無意識の力動として男尊女卑が働いているのでしょう。男性の少数派(ホモセクシャル)なら認めてあげるけど、女性は認めないよ、という気分です。マスコミというのはこのように操作するものなのです。当たり前のことですが多数派の意見は全部信じないことです。

陰惨な殺人事件などが報道されると、それを真似た事件が必ず起きます。模倣(もほう)犯と呼ばれますが、これは社会的(外的)な抑圧が低くなったために起きたとも言えますが、それだけなら事件はもっとあっていいはずです。ここで注目したいのが、先にあげた個人の葛藤の問題です。

個人が葛藤を抱えられなくなったというのは、個人的(内的)な抑圧が低くなっているのです。私たちは、何か自分の感情に触れる出来事が起きると、それはいったい何なのかと自分で見ようとします。それは自分にとって安全なのか危険なのか、そういう判断を瞬時に行ないます。

それは過去の自分の記憶に照らし合わせる作業です。あのときあんな怖い想いをしたな、それと似ている、これは危険だ、反撃できるだろうか、それとも逃げたほうがいいのだろうか。こうして少し様子見モードに入ります。これは余裕のある態度です。個人的(内的)な抑圧が低い人というのは、この様子見ができません。余裕がないのです。すぐ自分に危険だと結び付けて条件反射的に(実際は上のような思考の連鎖が働いて)反応してしまいます。これがすぐにキレるということです。

様子見のできる自分というのは「マインドフルな私」です。すぐにキレる自分というのはマインドレスな(こころを失った)私です。

では、なぜ個人的(内的)な抑圧が低い人、つまり葛藤を抱えられない人が増えているのでしょうか。社会的(外的)な抑圧が低くなったために、個人的(内的)な抑圧の低さがよく見えるようになったということもあるでしょう。これは私見になりますが、私の少ない経験から申し上げると、個人的(内的)な抑圧の低い人の割合は、葛藤していないために怒りの質がドライな感じがします。ドライゆえ表面化しやすいのだと思います。

ドライな怒りとは、貯め込んで熟成された怒りではなくフレッシュな怒りです。鮮度がいい。だからいったんそれが出てしまえば後に引きずることはない。重大犯罪を犯した犯人が意外にもあっけらかんとしていて、その表情のまま法廷に出てくるわけなので遺族の方の感情を逆なですることになります。後に引きずる怒りではないので当人にしてみれば健康的な怒りの放出なので問題はないのですが、それが事件にからむと「反省できない人」になります。その場限りの涙を流すだけで反省していないので再犯の確率が高くなる。

英国人女性殺害事件の市川容疑者の手記を読みましたが、面白くない本でした。真実が語られていないからです。あの人も結局反省していません。一番自分が直視しないといけない部分にすっぽりとフタをしています。真実を語るようになるには長いカウンセリングが必要なケースだと思いました。

それに比較して、葛藤できる人の貯め込んだ怒りというのはウェットな怒りです。ねちねちとしておどろおどろしい。腐敗臭が漂っていて、怒りというより恨みです。ですから陰湿になりがちです。なかなか表面には出てこないが、出てきたらそれは猟奇的な行動となって登場する。インパクトが強いんですね。そして根が深い恨みですから、なかなか消えずに何度もしつこく噴き出してくる。このしつこさは一生ものです。しかしウェットな怒りを持っている人は、自分の怒りにはルーツがあることが何となくわかっていることが多い。こういう人はカウンセリングをすることで、大化け(おおばけ)するのです。十分に変わる可能性がある。

自分の怒りのルーツとは腐敗臭です。腐敗臭は悪いばかりではない。懐かしい田舎の匂い(穀物の匂い)でもあったりするわけで、そのような懐かしさや嫌悪感の入り混じった怒りというのは本当は自分にとってプラスに働くはずなのです。それを自己嫌悪の材料に使っているわけで実にもったいないことをしているのです。そういうことに気づいていかれることがその人にとって尊い行動になります。尊いとは、自分にとって尊いということです。大きな自己肯定へつながります。

私は相談に来られた方に、葛藤してくださいね、とスタート時には申し上げるようにしています。かなり難しいことをお願いしているわけですが、精神的な悩みを乗り越えていくにはもっともっと困難なことがたくさんあります。いくつもの山を越えて行かないといけません。その難しい山登りのついでにお願いするわけです。このお願いは、言外に、あなたの治療にはあなたの霊的な成熟も必要です、私はあなたが霊的に成熟したことを見届ける人です、というニュアンスも含んでいるのです。葛藤を抱えられる人は大人です。霊的にレベルが高いということです。

治療が進むと衝動的な行動を起こしていた人は、ほとんど必ず、抑うつ状態になります。これは葛藤するようになったということであり、霊的な階段をひとつ上がろうとしていること意味します。抑うつを経過しないと真の治癒への道を進むことはできません。

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