インテルへ移籍した長友のインタビューがありました。(サッカーの話です。)
彼はインテルへ移籍してからしばらくスランプに悩んだと言います。ボールをキープしながら敵陣深く食い込んでいき、シュートのチャンスを作るという彼の持ち味がさっぱり見られなくなったのです。2010年のワールドカップではその持ち味が十分に発揮され移籍につながったのに、それが封印されてしまったのです。
この理由を長友自身考えます。
ヨーロッパのプロサッカーリーグというもっともレベルの高い世界に単身乗り込んでいったためではない。ワールドカップの頃と比べると、ボールを持ったときに、ゴール近くまで切り込んでいく道筋が見えないことが問題であると、気が付きます。視界が狭くなっていることが問題だったわけです。(視界の狭さは、ヨーロッパサッカーリーグという超一流のプレッシャーもあったでしょう。)
彼はそのスランプから脱するために、あることをしました。
それは、
「おいしいものを食べたらそれをおいしいと感じること。そしてそれに感謝すること。」
え?これがスランプ脱出の方策か?とお思いの方もいらっしゃるでしょう。しかし、ここには長友の心眼があるのです。
おいしいものを食べてそれをおいしいと感じる、というのは、マインドフルになるということです。感性(この場合は味覚)が感じ取ることを、あるがままに受け取るということです。何のフィルターもかけずにそのまま受け取り、それと一緒にいる。これは感性が体験している物事に対して開かれていないとできないことです。何ものにもとらわれず、その感性が感じるままに居る。こうすることで、感覚は自由に動き出すことができます。
長友的に言うならば、感性を十分に使うことで視覚が覚醒し、視界が広がり、切り込んでいく道筋が見えてくる、というわけです。
このように感性を使っていくということはとても重要なことなのです。
長友は「それに感謝すること」とも言っていますが、ここでは問題にしません。多くの人々は、この「感謝」という言葉に過剰反応するようです。感謝が目的になってしまうくらいに過剰反応します。長友のこの言葉の重要な指摘は前半部なのです。
おいしいものをおいしいと感じること。このマインドフルな状態を常にキープする。そうすると「今」というものに集中します。今という瞬間がものすごく深いものとなります。相談者の方でこの状態を「超今(ちょういま)」と表現されていた方が居ます。私はこれを「メタナウ」(meta-now: 今の中の今)と言い換えました。私の少ない体験から申し上げると、このような深い体験の中に生きることができるようになると、苦悩は道を譲るようです。苦悩にはばまれていた道筋が見えてくるようです。
感謝は結果的に湧き出してくる感情です。湧き出すままに感謝を感じていればいいでしょう。違う感情が湧いてくることもあるでしょう。だから後半部の「感謝」は問題ではないのです。マスコミなどは「感謝」が好きなので、後半部に重要度を置きがちですが、そうではなくてマインドフルな状態になることが重要で、その結果として自然と感謝が出てくる、そのように考えていいと思います。感謝はおまけです。