マインドフルネス~抑うつ感の向こうに

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中国の古典、老子全体に流れているのは、「今ここ」Here and Nowつまりマインドフルネスの思想です。

私のカウンセリングでもマインドフルネスは一番大切なものとして扱います。
相談者の方のマインドフル、治療者のマインドフル、その双方が反応しあわないと治療は進んでいきません。

この記事では、老子にどのようなマインドフルな思想が流れているのかを、ほんの少しですが、ご紹介します。

■マインドフルネス

先日夢を見ました。朝方、犬の散歩の時間だなと思いながら、うつらうつらしていたときに見た夢なので、半分は意識が目覚めている状態でした。

ユーミンが自分の歌が生まれた瞬間を話しているという夢です。以前どこかでこのような話を聞いたことは私の記憶にはありません。

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やさしさに包まれたなら、の歌は、歌が作れる!と思いながら作りました。部屋の中がほんとにキラキラしていて、曲と詩が同時にできました。キラキラしている、その光の中からやってきたような想いがありました。自分の調子がいいんだな、と思ったので、もっと他に作れないかと思いました。そして、12月の雨とさざ波の詞ができました。曲はあとからつけました。さざ波については、発表してからファンの方から、あの歌は10月が一年の終わりのような印象を受ける、一年の終わりは12月であると、お叱りを受けたのですが、私としては、そのくらい存在感のある10月だったんですね、これで一年が終わってもいいと思うくらいの10月だったんです。

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やさしさに包まれたならは、宮崎アニメ「魔女の宅急便」にも使われました。12月の雨と同じアルバム「ミスリム」に入っています。ユーミンの2枚目のアルバムです。さざ波は4枚目のアルバム「14番目の月」のオープニング曲です。

実際、さざ波の歌詞には、一年が終わるような印象を受けるところは全くありません。10月という言葉も、「心も文字も少し揺れてる グレーの影と私だけの10月」と、最後に1回出てくるだけです。ですから、この夢では、ユーミンの歌やさざ波の歌詞の内容が重要なのではないように感じました。

それよりも、最後に話されている、これで終わってもいいと思うくらい存在感のある感覚、これが夢の本心のように思いました。夢はそれを私に伝えに来てくれていたのでしょうか。

この「これで終わってもいいと思う感覚」ですが、これは「死んでもいい」という感覚です。とても幸せなとき、もう死んでもいい、と言ったりします。実際死ぬわけでないですが、無意識の内では、実際に死んでいるのです。もっとも生命が輝くとき、その瞬間にはいのちが死んでいるのです。死ぬというのは、そのくらい肯定的なことなのです。

これは、今という瞬間を生きているということであり、今を本当に生きているからこそ死ぬことができるのです。安心して死ぬことができる。老子全編にはこの感覚が重低音のように流れています。「今を生きよ」と訴えてきます。今を生きるとは、今死ぬことです。この一瞬一瞬に生きて死ぬことです。一秒後は過去であり、死です。そのような生き方です。

今ここを生きるとは、今ここに死ぬということ。まさに充実して生きるということは、その瞬間に死ぬということ。老子が伝えるマインドフルな生き方そのものです。

ユーミンの夢はそのようなことを伝えていたように思います。

不眠症という病があります。不眠症とは、眠れないこと。眠るとは意識を失うことであり、意識的な自分が居なくなることです。つまり意識的に死んでいるということです。(頭のコントロールを離れて無意識的な自分に戻るということです。)そのように考えると、頭のコントロールから離れることが不安な病、今死ぬことが不安な病という見方ができます。

今死ぬのが不安なのは、今を生きている実感が乏(とぼ)しいからです。今本当に生きていれば、そこで死ねるのです。つまり眠ることが不安でなくなります。不眠の人が眠る前に、何か自分の好きなことを少しでもやる習慣を身につけて今ここを生きている時間を持つようにすると、だんだんと不眠も改善されていくのはそのような理由からです。

繰り返しになりますが、マインドフルに生きるとは、その瞬間に肯定的に死ぬことができるということです。それによって自分のいのちが輝くのです。

■普通でないこと

相談に来られている方がカウンセリングの中で気づかれたことを紹介します。

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親子や恋人が手をつないでいる。それを見ていると、自分はひとりだけれども幸せを感じることができるようになった。あ、幸せだな。あの人たちも幸せだけど、それを見ている自分も幸せだな。自分のことをそう思えるようになった。誰かと一緒でないと孤独だ、ということもない。一人暮らしというのも結構いいのじゃないか。幸せが自分の中から湧(わ)いてくる。不安はなくて、そういう感じ。幸せっていう感じ。誰かと一緒もいいが、個人個人で生活をするというものいい。自分がオカシイと思って、一生懸命に普通になろう、みんなと一緒になろうとしていたあの頃は苦しかった。

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誰かと一緒になって家庭をもつということが幸せであると、私たちはいつから考えるようになったのでしょうか。一人だと寂しいと、いつから考えるようになったのでしょうか。本当は、一人でいると寂しい人が二人寄れば、もっともっと寂しさは大きくなるはずなのに。これを共依存といいます。共依存の人は一人でいることができないのです。この相談者の方は、その山をひとつ越えて行ったわけです。

一人でいると寂しかろう、という普通に通用しているような誤った常識が苦しさを生み出します。

どうして人がやれるように自分はできないのか。自分は人と違うのではないか。この、人との「差異」ということは人間の根底にある恐怖の1つです。「違う」ということにこだわってしまう。1990年代後半から、発達障害という概念がブームになっています。このブームの根底には、差異を認めることを拒否する学校教育があるように思います。そして不思議なことには、学校の先生が、この発達障害について良く勉強されているのです。ゆとり教育、個の教育というのは建前にすぎないように思います。

漢字のどこを跳ねるとか、跳ねないとか。
目を合わせられるとか合わせられないとか。
皆の輪の中に入るとか入らないとか。

学校では、そういう差異が問題になります。
本来コミュニケーションなどは千差万別あるはずなのに、
それでもある基準をもうけてしまわないと心配である。

いったい誰が心配しているのでしょうか。
本人の心配より他者の心配のが大きいように感じます。

老子は世の中の道理(タオ)として、

天下すべての人がみな、美を美として認めること、そこから悪(みにく)さが出てくる。同様に、善を善として認めること、そこから不善が出てくるのだ。(老子2章)

と言っています。

大多数が美しいと認めるものから醜さというものが出てくる。大多数が良いと認めるものから悪事が出てくる。つまり今風に言うと、新聞やテレビなどのマスコミのいうことは、いったん疑ってかかったほうがいい、ということです。民主主義は多数決の原則です。そういう多数意見はいったん疑ってかかったほうがいい、ということです。

例えば、最近一人で死んだという事件が頻繁に報道されます。そこにいつも見るのは「孤死」という言葉です。つまり、孤独な死、という余計な定義をしてしまっているのです。正確に言うなら、これは「独死」です。一人で死んでいるわけですから。一人で死ぬのは寂しかろうと勝手に判断して、死んだ人間に共感しているふりをしながら「孤死」というふうにマスコミは報道するのです。

一人で死ぬことが寂しいかどうか。相談者の方の気づきをもう一度見てください。「誰かと一緒でないと孤独だ、ということもない」と言っています。精神的な苦悩を乗り越えたあとでは、一人で死ぬことは寂しいことではなくなるのです。それに気がついていない普通の意見を言う多数こそ、寂しい人々の集まりなのかもしれません。相談者の方は「普通になろうとしていたときは苦しかった」と告白しています。これはいたって正直な感想です。普通になって皆と一緒になることは、もっともっと寂しくなることだから、余計に苦しくなるのです。

多数の歩む普通の道などは、さほどの意味はないのです。個人個人が己のわき道を歩めと老子は言います。わき道には真実があります。なぜならそれは自分の道だから。皆がめざす道を行くほど疲れることはありません。苦しいことはありません。普通になろうとすることは、自分の一番大切な部分を歪めます。自分で自分を縛ることになります。そうなると息苦しさを感じる場面でパニックになりやすい。皆が認めるようなこと、賞賛するようなことはしてもいいけれど、やったとしても、それをやることが自分の何かになるなんてことは思わないことです。

谷川俊太郎は 20億光年の孤独という詩の中で、「万有引力とは引き合う孤独の力である」と言っています。これは、宇宙は孤独に満ちているから寂しいもんだ、ということを言っているわけではありません。

二人の人間が出会って、そこに何らかの関係が生まれると、親密さという引力が発生します。見かけ上、親密さには2つのものがあります。ひとつは、自分一人で満たされているものどうしの親密さ。二つめは、寂しくてしかたのないものどうしの親密さです。

前者は暖かさを自家発電できる状態で、ここには愛の引力が発生しています。自分を満たしたあと余りがあるので他人へもそれをお裾わけできる状態です。後者は誰かから暖かさをもらわないと凍死してしまう状態で、ここには共依存の怖い引力が発生しています。ギブ&テイク、あげたからちょうだいという欲をベースにした関係です。自分で自分を満たすことができないから他人から横どりしようということです。

谷川の言う孤独の力とは愛の引力のことを言っているのです。一人であるということは、それほどまでに愛に満ちた状態である。誰かを愛するためにはまず一人にならなければならない、それに気づけよ、そういう一人になれよ、とメッセージを送っているのです。

■知識によって見えなくなるもの

私にわずかでも知識があったならば、真実の道を歩くとき誤った道へ踏み外すのではないかと恐れるであろう(老子53章)

知っているものはしゃべらない。しゃべるものは知ってはいない。(老子56章)

行動しないようにしろ。干渉しないようにしろ。(老子63章)

知識というものはあればいいというものではありません。これは学校教育とぶつかる主張なのかもしれません。教育というものじたい、知識を教え人を育てることを主眼にしているからです。知識が前提となっているわけです。

専門家というのは、それについての専門的な知識を有した人々のことをいいます。例えば、私たちの業界で言えば、心理学全般の知識、心理療法の知識、カウンセリングの知識、心理検査の知識を十分に習得していることが要求されます。それで始めて専門家と名乗ることができるのです。

それは間違ってはいないのですが、カウンセリングをしているときに、ある重要な局面に来たとき、それではいけないのです。専門家であってはいけないのです。カウンセリングを進めていくうえで、治療的なかかわりをするとき、どのように進めていこうかと治療的な視点に立って思いめぐらすのが専門家としての私たちです。これは悪いことではありません。こういうことができるということは相談者の方への責任を果たしていると思います。知識が上手に利用されています。

しかし、それだけではカウンセリングがにっちもさっちも進まなくなるときが来ます。重要な局面がやってきたときです。重要な局面とは、相談者のかたに大きな転機、気づきが訪れようとしているとき。いわゆる相談者の方の世界感、つまり霊性(スピリチュアル)ですね、そういうものが揺さぶりをかけられて、変更を余儀なくさせられていて、こころがギシギシと聞こえない音を立てているときです。

こういうときには、治療者は一切のものを捨て去って相談者に向かわねばならない。シロートになる瞬間と言ってもいいかもしれません。シロートというのは純粋性です。無辜(むこ)のものです。そのような両者の純粋な何かが反応するとき、つまり霊的なものが交信しあうときなのです。それがないと、重要な局面を乗り越えていくことができません。これを乗り越えることで、相談者(ばかりではなく治療者側も)の霊性が一つ発達するのです。見る景色が変わります。世界感がシフトします。

こういうガチの真剣勝負ともいえる局面では、治療者の持っている知識というものは余計な不純物になります。無為自然。何も為さずに居るのが自然、つまり霊性(世界観)とつながる唯一の手段になるのです。

カウンセリングの現場を例として説明しましたが、人と人が触れ合う瞬間に流れる交流とは、その人の背後に広がっている大自然(大世界観)によって成(な)されているのです。コントロールできない霊的な場所でそれが行われます。こんなときにはこう対応すればいいよ、などというテクニックやノウハウ的な知識を使ってもいいことはないのです。知識を使わないこと、これが本当に「知っている」ということなのでしょう。

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