幼児期前期(1歳半~3歳)

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いよいよ幼児期です。

いよいよ、というのは、この時期の不全感をもたれている人が多いからです。アダルトチルドレン、各種依存症、境界性パーソナリティ障害を始めとする各種疾患ばかりでなく、抑うつ感の源流などもこの時期にあります。

幼児期は1歳半~3歳までの前期と、3歳~4歳までの後期に分かれます。

前期に学習することとして2つのことがあります。1つ目は「ひとりでいられる能力」(私はこれを「おんぶお化け能力」と言っています)、2つ目は「自己主張の獲得、怒りを納める能力」です。両方ともとても大切な能力です。

一人でいられないから、一人で居ると安心感を得られないから、他のものに依存してしまいます。それは薬物であったり、アルコールであったり、食物であったり、権威であったり、他人や異性であったりします。

また自分を主張できないと、嫌なものを嫌だと言えません。自分の中で不満をいつも持ってしまうことになります。それを意識の上にのぼらせるのは社会的な対人関係においてマイナスとなってしまので、避けなければなりません。そのため、自分をごまかします。それは大したことではないのだ、それを考えるのは面倒くさい、自分というものがわからない、生きている感じがしない、そのような考えに迷い込みます。

まず、一つ目の「ひとりでいられる能力」を見ていきます。

ひとりでいられる能力とは、イギリスの児童精神科医ウィニコットが原典です。これをもうちょっと分かりやすく言うと、「二人でいるから、一人でいられる」能力なのです。これは幼児と母親の行動を観察することから発見された能力です。

この時期になると幼児は、母親から少し離れて、自分で自分の周りの世界を探索しだします。外の世界へ関心が向いて、それとの関係を恐る恐る持つことで、自分の世界が広がっていくのです。このとき、幼児にはしっかりとした確信があるのです。「怖くなったらすぐ母親が助けに来てくれる。母親のところへ戻れば自分は安全である。」これを基本的信頼感といいますが、二人いる(母親と一緒にいる)から、(幼児)一人でもいられるわけです。いつでもどこでも、母親と一緒にいることの確信がそこにはあるわけです。これは、なかなかすごい指摘だと思いませんか。

この「母親と一緒にいることへの確信」ですが、自分のこころの中に母性というものを住みつかせることができているかどうかにかかっています。自分をかけがえないものだ、自分は大事なんだ、そういう大切な存在なんだ、と思うことが母性です。そして、これが自己愛(セルフラブ)の根底です。そのような母性を自分の中に住みつかせることができているかどうかです。

ここにつまづきのある人は、なんどもカウンセラーに確認したり、カウンセラーを試したりします。「私はこんなことをするけど貴方は私を捨てませんね」それを確認するために、クライエントさんは行動化するわけです。

このような人は母性を取り入れられていないので、なかなか治療も進展していきません。そこでカウンセラーが母性を肩代わりするわけです。あなたの背中にね、私がおんぶお化けのように乗っかってるよ、いつでも。怖くなったときは、そのお化けを呼び出しなさい、そう言って、母性の代理としてカウンセラーをこころの中に住みつかせることをします。このスタイルは、家族療法の遠藤優子さんから学びました。

そういうことをやっていいのか、という人もいるかもしれませんが、ここにつまづきのある人にはそういうことをしないと治っていきません。カウンセラーは恋人や母親や配偶者ではありません。しかし、それ以上に特殊な親密な関係を作っています。この親密な関係は共感の素にもなります。だから、そのようなアプローチを取ったほうがいいのです。

二つ目は、「自己主張の獲得、怒りを納める能力」です。

この時期あたりまでに感じる怒りが、人間の怒りの一番底の部分になります。幼児期前期の怒りが適切に処理されないままずっと持ち続けると、恨みに変化します。怒りというのは他人に対しての感情ですが、恨みというのは、実は、自分に対しての感情です。怒りも恨みも感情自体は同質のものですが、その感情の向く方向が違うわけです。自分に対して怒りが向くわけですから、自殺衝動につながっていきます。

依存症の方は、この怒りの処理に問題があると言われています。つまり、3歳あたりに問題があるということです。

依存症の人々は、自分のコントロールを超えている、自分より大きなパワーに自分を明け渡そうとします。自分より大きなパワーとは、薬物、食べ物、恋愛、アルコール、宗教、霊的・スピリチュアルなものです。そのパワーの中に自分を投入させることで、自分を失わせたいという期待に応えることができます。その結果、精神的な死が訪れます。身体的に死ぬ前に、精神的に死ぬのです。占いやスピリチュアル的なものは運命に近づいた気がして、誰しも少なからず興味がありますが、依存症の方はそれらに没頭しやすい傾向があるように思います。これも、自分が助かりたいという気持ちの表れですが、それをすることで自分を見失っていることに気がついていないのです。

自分は無力なんだと感じ始めたとき、一番簡単な脱出方法は怒ることです。そして、怒りが起こり始めると、その人自身はその場を立ち去ります。その人が居なくなるわけですから、怒りはコントロールを外れて暴走を始めます。これが怒りを止められない=切れる、ということです。

無力感は、赤ちゃんから老人、人生全般に渡って存在しているものですが、幼児期に植えつけられた無力感は、依存や怒りの素になっていきます。この無力な感じとは、もう脱出することが不可能のように思う無力感です。ここをどう乗り切っていくのがいいのかですが、無力感、怒りが起きてきても、そこから立ち去らないことです。そこにとどまることです。「私の怒りは在ってもいいんだ。私はこの場所に居よう。」と決心することです。自分が怒りから逃げ出すようにどこかへ立ち去ろうとしたとき、「元の場所へ戻る」ことです。これは一人では難しいことですが、適切なカウンセラーとなら一緒に居ることができるでしょう。

「この場所」とは、ベイトソンが言うところの「天使もおそれて立ち入らない」ような神聖な場所です。ですからカウンセラーがここへ立ち入る場合、相談者へ尊厳を抱きつつ分け入っていきます。クライエントさんに対してかわいそうなことをすることのないよう、常に、尊厳をもって自重しながら畏れを持ちながら援助していく姿勢が問われるのです。

さて、怒りとは生理的な感情です。自分の意思でコントロールするものではないし、学習して身につけるものでもありません。人間の根底の感情なのです。ですからコントロールするのでなく、それを幼児がどのように自己主張に結びつけていけるかが重要なのです。それがうまくいくと、怒りが起きてきたとしても、自分の個性として表現することができるようになっていきます。

怒りとは欲求が満たされないときに出てくるものです。自分の安全が脅かされたときに出てくるものです。電車の中で足を踏まれたときにムカッとくる、あの安全が脅かされた感じです。この種の危険が、欲求不満の大きな素になっています。

このとき、相手から「すみません、大丈夫ですか」と謝られると、怒りはすっと消えます。これは怒りが相手の謝罪の中に吸収されたからです。自分の安全が侵されたために出てきた怒り、つまり欲求不満が、相手の謝罪によって正しい納まり場所へ納まったのです。謝罪だけでは納まらなくて、いつまでも不満に圧倒されている人、つまり切れやすい人は、何か別な問題があるのです。

幼児期の怒りで一番ポピュラーなものは、「おんぶしてー、だっこしてー」と外で泣きわめき散らす怒りです。このとき、まず大切なことは、子どもの欲求に焦点が最初にあたることです。「そうだね、おんぶしてほしいよね。」これが最初です。親は、この気持ちを自分の身体の中心で感じることです。自分のお腹の中にその気持ちを沈みこませたあと、「でもね、お母さん、いっぱい荷物もってるからね。」という話をして躾けるのです。

ともすると躾けが先に立ってしまいますが、まず子どもの気持ちを自分の中心で受け止めることが先です。このメリハリがうまく回るようになってくると、子どもの自己主張も洗練されたものになっていきます。

親によっては子どもの泣き声や訴えを聞くだけで身体が凍りつく人もいるでしょう。虐待してしまうのではないかという恐れを持ってしまうことに怯える人もいるでしょう。その人たちはたいてい幼少期になんらかの傷を負ってきてしまった人たちです。そんなときは、「身体が凍り付いてもいいんだ、虐待してしまう気持ちを持ってもいいんだ」と自分に許可を与えながら、静かに呼吸を続けることです。そして、そこに居ること、逃げないことです。その気持ちと一緒に居ることです。そうすることで、いままで居ないことにしてきた自分に出会うことが出来ます。ここがご自分への癒やしのスタートとなります。

子どもが自分の欲求を出してきたとき、親がおどおどすることがあります。親の、このような雰囲気はすぐ子どもへ伝わります。そして、子どもは無意識のうちに「あ、こういう欲求を出すと親を滅ぼしてしまうかもしれない」という恐怖にとりつかれます。それで「いい子にしていよう、親に心配をかけることは悪いことなんだ」と思い、自分の欲求を押し殺してしまいます。親にとっては非常に育てやすい「よい子」になるわけです。けれど子にとっては、自分で自分を殺しているわけなので、いいはずがありません。同時に、非常に強い恐れのようなものを自分の内に秘めるようになります。

このようなことは虐待ではありませんが、親が子どもに期待したり、いい子でいることをほめて祝福するようなことがあると、それが逆に、子どもにとっては呪いの言葉となってしまうことがあることを示しています。この呪いの言葉によって思春期になって引きこもりなどに発展する可能性もあるのです。(偶然かとは思いますが、祝と呪との漢字はよく似ていると思いませんか。)

ただ、この呪いの言葉や恐れが悪いことかと言うと、そうばかりとは言えません。呪いも、ある程度はいいのです。子どもはこの呪いによって、怒りを自分で抑制することを学ぶことができます。そして怒りを自分の主張に変えていくことができるようになるわけです。だから、おどおどするのではなく、「そうだね、そうだね、だけど、困ったね。どうしようか。」と言っていればいいのです。答えをすぐに出さない、これが躾けです。

子どもの欲求を満たせるときは満たして、無理なときはダメと言う。ダメと言ったら次は満たしてあげる。そのような当たり前な対応をすることが躾けなのです。親がこういう態度を取ることで、子どもは「ありがとう」と「ごめんなさい」を覚えていきます。口先でありがとう、ごめんなさいを言うのではないのです。ありがとうと言うときは、こころに嬉しさが必ずあるわけです。ごめんなさいと言うときは、こころが必ず、しゅんとしているわけです。この「こころが震える感覚」を芽生えさせることが躾けなのです。これらは、感情の根底であり、原始的な感情ですが、非常に高度な感情です。対人関係を作っていく上での根底になる感情です。

この、しゅんという感情ですがこれは幼児の抑うつです。この抑うつに怒りが吸収されていくのです。大人になっても、いつまでたっても自分の問題にできない人がいますが、そのような人は、幼児の「ごめんなさい」=しゅん、ということができない人なのです。3歳頃獲得すべき感情が未分化のまま自分の中に潜んでしまっているのです。自分の問題にしようとするとき、強い否認が働き、自分とは関係がないとしてしまうのです。

また、弱々しい親、忙しい親、緊張が高い親、ゆとりのない親は、子どもに呪いの言葉をプレゼントする親の候補生です。呪いが強すぎると、怒りが必要以上い抑制されてしまって、子どもはいい子を演じることになります。この役割にはまってしまうと、なかなかそこから出れなくなってしまうのです。なぜなら、子どもはいつも親のことが好きだからです。好きな人の言うことは聞きたいし、好きな人を滅ぼしたくはないと思っているからです。そこに親のほうが図に乗ってしまい、呪いの言葉をかけてしまうことのほうが問題なのです。

参考図書:
カウンセリングに生かす発達理論(遠藤優子)
子どもを支えることば(崎尾英子)
愛という勇気(スティーブン・ギリガン)
パッショネイト・マリッジ(D・シュナーチ)

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