小学校(あるいは幼稚園頃)に入ってから4~6年生くらいまでの時期です。
小学生の高学年に入る頃までを児童期あるいは学童期といいます。小学校時代を学童期と捉えることもできますが、最近は思春期が早いので、ここでは高学年に入る10歳過ぎまでを学童期と考えてみます。この時期は潜伏期とも呼ばれ、問題が表面化してこない、親にとっては育てやすい(気がする)時期です。
小学校へ入るということは子どもにとっては人生の大転換点でもあります。これまで保護されてきた殻から抜け出すわけですから、ものすごいストレスです。小学校低学年で行き渋りやおねしょの復活はそれほど珍しいものではなく、それだけストレスがかかっているということです。
自分は子どもの頃そうではなかったと考える親御さんもいらっしゃるかと思いますが、昔と今ではストレスのかかり方は違います。30年前なら安心して歩けた夜道も、今は事件と隣り合わせです。(昔は夜回りなんてありました。夜回り先生で有名な横浜の水谷修さんは、私の高校時代の同窓生です。こうゆう話題を出すことを社会心理学用語で栄光浴と言います。笑。)
ですから、小学校へ入りたては、すごくゆるく、大目に見てあげてください。そして、泣いたりしているときは、どうしたんだ、悲しかったのか、そうか、そうか、とまず子どもの悲しみと一緒にいてあげることです。すぐに答えを出す必要はないのです。しみじみと子どもの悲しみの側に居てあげてください。そうすることで、子どもはストレスと安定の間を行ったり来たりしながら、だんだんとストレスフルな社会へ出ていくだけの力がついてくるのです。つまり家族という安全基地を頼りにしながら、外へ乗り出していく社会化がこの時期のテーマになります。
学校というのは大きな社会、集団です。そこには競争が待っています。残念ながら現代においては教育とは競争のことです。しかし、学校の目的は勉強することではありません。知らない人と触れ合うことで人間関係の掟(ルール)を覚えていく場です。先生というのはそのために存在します。勉強などは学校で教わらなくてもどこでも教わることができます。塾へ行けばすむだけです。しかし、集団での人間関係を実地で覚えるとなると、この年齢では学校以外にはその場はないのです。
子どもにとっては自分のことよりも集団の掟のほうが優先されます。自分がその集団に属していてどのポジションにいるか、自分がそこに溶け込めているのかいないのか、どれだけ友達が居るか、どれだけ人気があるか、それらが特に重要になってきます。自分の自尊感情を左右する重大事項です。だから、いじめにあったり、シカトされたりすることは、自分の存在を全否定されたように感じ、自分の命が削られるほど辛いことになります。ものすごく大きなダメージになります。
だから、「なになにちゃんが持っている、私は持ってない、買って」というような、大人からみたら主体性のないようなことも言うわけです。みんなといっしょでないとダメなんだ、という気持ちが芽生える頃であり、それは主体性がないのではなくて、そのような集団の掟が存在する世界へ没入していることであり、それは避けて通れないことなのです。
むしろ、この時期にそういうことがない場合、それはどこか、その子が無理をして、いい子をしている可能性があります。親としては楽ですが、じっと子どもの目の奥を見つめてあげてください。僕は本当はみんなと同じものが欲しいんだ、と訴えてかけているかもしれません。
この時期の、「みんなと同じものを持ちたい」という訴えは社会性の現れです。これまで母親と父親との世界だけだったのが、社会の中で生き始めたということです。これは、言い換えると、自分の世界へ乗り出していくということです。だから、親としてはあまり口出しはせず、遠くから見守っていることです。怖くなったらいつでも言うんだよ、頼りないかもしれないけれど、お前のそばで一生懸命考えるから、という雰囲気を送っておくことです。
こうすることで、親と子どもの間に世代境界が引かれていき、10歳の頃になると、すっかりと境界が完成し、子どもは子どもなりに決心をつけながら思春期の怒涛の時代へ入っていくことができるのです。
10歳の頃に出来上がる世代境界について考えてみます。
世代境界ができるということは、親は親、子は子、ということが子どもにとって当たり前になるということです。だから、親をうっとうしいものに思い始めます。普段生活している分には、親など居ないほうがよくなります。休日も親と一緒に行動することが少なくなり、こうやって親離れがスタートします。
このとき親は格好悪い親を演じなければなりません。子どもに、うちの親はかっこ悪いなと思わせるのです。これが子どもの親離れを加速させます。こういうことのできる親が、本当にカッコいい親なのです。
子の親離れが始まったとき、親のほうではこのとき、あれっ?と思います。あれっと思うのはいいのですが、子どもを自分のふところへ呼び戻したり、これから人生を教えようと勘違いして、子どもへのアプローチを強化する親がいます。スポーツ選手の親、何かで名を成した親は、その代表格です。天才教育が悪いわけではありませんが、そのような親を持った子どもは思春期を通して親が自分の真上に君臨しているので、このうえなくうっとおしいものになります。
親も子どももおたがい離れることができず、子どもは大人になっても精神的に家にしばられたままになります。芸術家と呼ばれる人たちは、たいてい家から離れることができません。親との深い葛藤があるのです。それがあるからこそ、それと引き換えに、芸術作品を生み出すことができるのです。そういうジレンマと共に生きているのが芸術家と呼ばれる人々です。だから、そういう人の配偶者となる人には、とてつもないストレスがかかります。
うっとおしいことをうっとおしいと表現できる子どもは健康ですが、それが言えずに親に従ってしまう子どもも多いです。それによって子どもも成功するため、それがよかったのだと、子どもも親も勘違いしてしまい、今度はその子どもが親になったとき、同じことを自分の子どもにしてしまいます。まさに世代連鎖です。この世代連鎖はいつか途切れます。だいたい3代目か4代目です。その時期になると反乱を起こす子どもが出てくる。世襲のように代々続くその家系に風穴をあける役割をするのです。ここでようやくその家系に修正がかかります。ここまでくるのに50年かかります。
親のやっていること、親の夢は、親一代で終わらせるべきなのです。子どもがやりたいと言ったときには猛烈に反対する物分りの悪い親を演じるのです。そうやって子どもをいったん突き放しておくことが大切です。しばらくして子どもも自分が本当にそれが必要とわかれば、親へ頼んでくるでしょう。そのとき親は自分で教えるのではなく、同じ職業の仲間へ子どもを託すのです。こうやって世代境界をキープするのです。決して自分で子どもを取り込もうとしないこと。子どもも外へ修行に出されるわけなので、いつまでも親を頼りにするわけにはいきません。
ファッション界で有名なコム・デ・ギャルソンを始めた川久保玲さんは、デザインを生み出すときは死ぬ直前まで行くと言います。私に子どもがいたら絶対にこの職業は勧めない、と言い切っています。親の生業(なりわい)や夢をめぐる親子の関係はこういうものだと思います。
世代境界とは「ふるい」の役割をします。つまり通さないものは通さない、秘密は守る。でも通すものは通す、言うべきことはちゃんと伝える。そのような役割です。言い換えると、どこまで口出しするか、ということですが、これは、子どもそれぞれの個性によって違ってきます。一般化はできません。身体的障害のある子、発達に障害のある子では、違ってきて当然です。どのような境界がいいのは、本当に個別的な判断が必要なのです。
教育相談をする人は、当然発達理論は頭に入っているわけですが、どの時期の相談であるか、また境界はどの程度のやわらかさがあるのか、それはその家族状況において妥当であるのかどうか、それぞれ個別に判断する必要があるわけです。
また、境界にも、個人境界、世代境界、家族境界などがあります。個人境界とは、個人の中にある本音と建前、裸の自分と社会的な自分との境界です。これができてくるのは10歳の頃です。世代境界は、これまで説明したような、親と子どもの境界で、10歳の頃ある程度完成します。家族境界とは、その家族と社会との境界で、これに柔らかさがないと、圧力釜の家族になって非常に閉塞した危ない家庭になります。子どもも危機的な状況にさらされます。家族境界については、とても重要な概念で、思春期問題とも関連しますので、思春期のトピックで詳しく説明します。
ですから10歳という時期は子どもにとっては1つの変化点でもあるのです。
参考図書:
カウンセリングに生かす発達理論(遠藤優子)
アセスメントに生かす家族システム論(遠藤優子)
子どもを支えることば(崎尾英子)