成人期における親密さ~Sabor a Mi

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1959年にヒットしたラテンバラードにサボール・ア・ミという歌があります。

いろんな人が歌っています。
私のCDラックにも小野リサバージョンとローラ・フィジィバージョンがあります。

Sabor a Mi
私のテイスト

 Tanto tiempo disfrutamos este amor
 nuestras almas se acercaron tanto asi
 que yo guardo tu sabor
 pero tu llevas tambien
 sabor a mi

 随分長いこと2人で愛を育んできて
 私たちの魂はあまりにも近づきすぎたから、
 私の中にあなたのをテイストを感じる
 でも、あなたも同じ
 私のテイストがしみこんでいるわ

 si negaras mi presencia en tu vivir
 bastaria con abrazarte y conversar
 tanta vida yo te di
 que por fuerza tienes
 ya sabor a mi

 もし、あなたの人生に私の存在が必要ないというのなら
 あなたを抱きしめて、おしゃべりするだけで十分よ
 あなたに私の人生をいっぱい捧げたから
 あなたには、否が応でも、私のテイストがしみこんでいる

 No pretendo ser tu duen~o
 no soy nada, yo no tengo vanidad
 De mi vida, doy lo bueno
 yo tan pobre, que otra cosa puedo dar

 あなたを自分のものにしようなんてつもりはないわ
 私は何者でもない 虚栄心だってない
 私の生命の中から、善いものをあげるわ
 だって私はとっても貧しくって 他に何を与えるということができるの

 Pasaran mas de mil anos mucho mas
 yo no se si tenga amor la eternidad
 pero alla, tal como aqui
 en la boca llevara
 sabor ami

 これから何千年という時が経とうとも
 愛が永遠なものかは分からないけど
 あちらでも、ここと同じように
 あなたの口は、私の味を持ち続けるでしょうね

さて、この詞についてみなさんはどのように感じるでしょう。いろんな感じ方はありますが、ここでは大人の親密さという視点で眺めてみます。

主にアメリカで発展した自我心理学派(フロイトの精神分析の一派)のエリクソンE.H.は人間の発達について心理社会的発達論を唱えました。この理論が現在の発達心理学のベースになっています。それほど影響力のある理論です。

その理論では、成人期は「親密さ」を育むことが課題になっています。

私は、親密さという特性は人間が死ぬまで発達をとげて行くものではないかと思っています。それくらい重要な特性であり、パートナーとの親密さは、セックスのときにも重要なものとなります。この親密さという視点で、このラテンの名曲をもう一度眺めてみます。

——————————
あなたは私のものでなくてもいい。
私を必要としてくれなくてもいい。
それは私も同じ。
愛とは永遠なものであるのかどうかも知らないし、
私は何者でもない。
でも、あなたには私のテイストが、
私にはあなたのテイストが染みついている。
——————————

この親密さです。

ここにはパートナー同士が、自分の足で立ちながら、
相手のテイスト(たましい)を受け入れている状態があります。
(テイストとは味ですが、それはたましいと言うことです。)

パートナーとは結婚しているものどおしだけを言うわけではなく、
婚姻の形を取らないこともあるでしょう。

どちらかが死んで永久の別れがやってくるとき、
愛は永遠には続くわけではないけれど、
あなたは私のテイスト(たましい)を持ってあちらの国へ旅立った、
そう思うわけです。
私のテイストを持っていてくれるから嬉しいということもなく、
ただ淡々とその事実を受け取るだけです。
手くらいは握って微笑みながら涙を流すことくらいはするかもしれませんね。

死んでいくほうも、
あなたが私を知っていたということを分かっているよ、
と言いながら死んでいきます。
「あなたが私を知っていた」とは、
私のテイスト(たましい)があなたのどこか一部に住みついているようだ、
ということです。

この人生であなたが私と一緒だった、ということは言いません。
一緒かどうかというのは、この臨終の場面では重要ではないのです。
あくまでも「私を知っていた」という事実を知っていることが重要なのです。

この親密さこそ、知り合った二人ゆえに実現できるものなのです。
お互いのテイスト(たましい)を心に宿しながら、
それに囚われることのない親密さです。

これを寂しい関係だなと思う人もいるでしょう。
若い人は特にそうではないでしょうか。
結婚式は永久(とわ)の愛を誓う場所ですし。
でも、永久の愛などあるのでしょうか。
もしあるとすれば、それは親子の関係においてのみです。
(けれどそれだって危ういです。)

もう一つ、
「私は何者でもない」と告げています。
そのうえ「私は貧しい」と言います。
この自己認知は一朝一夕で得られるものではなく、
自分の心に沈んでいった末、十分な自己愛撫(セルフラブ)ができて
平和な時を過ごせるようになった人だけが到達できる場所です。

(この場所は、こころの病の相談に来られ回復していかれるクライエントさんが到達する位置に近いと思います。いわゆる霊性の高い場所ということです。)

永久の愛はないかもしれないけれど、
自分は全く大した人間ではないけれど、
それだからこそ、
このように分かちがたい親密さを得ることができるのです。

この自由さこそ、「ふたりいるから一人でいられる能力」です。自己分化が成されて自分で立っている状態と言えるでしょう。

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