高間先生こんにちは。お忙しい中いつも質問箱やスタエフありがとうございます。先日本屋で平積み本を立ち読みしたら「現実に抵抗するから辛くなる。目の前の出来事にお手上げして、あるがままを受け入れれば現実は好転して幸福になれる」とありました。流行りのスピ系心理学本?でしたが、その考え方は納得するものがあるというか、自分の今までの人生を振り返っても実感としてある程度は真実だなと思いました。
数日そのことを考えてたのですが、高間先生が愛着臨床の視点から語られるマインドフルネスはそんな単純な話ではないよなと漠然と疑問に思ってきました。愛着不全や愛着障害など自己主張が出来ないまま、目の前の現実に無抵抗になったら結構悲惨なことになってしまうのでは…?と。過去の友人などを思い返しても「え…なんて勿体無い。この人ならもっといい相手(恋人や結婚相手)や環境(学校や職場)を十分選べるのに(なんかやるせない)」ということも思い出したりしました。
とはいえ自分の場合を考えると、欲をかかずに目の前のことを嫌だとかもっと続いて欲しいとか判断せずにただ流れるままにしていた時は勝手に丁度良い所にもいけたし、でも流されるままにしてたらまた苦しい状況になりもました。でもそれに抵抗しても結局状況は改善せずに悪化したりいっとき良くなったように思えても感じた気持ちは達成感くらいで無抵抗な姿勢の時に感じてた幸せより不自由な感じがありました(でも力強さはあったかも…?)
私は自分が愛着に問題があるのか無いのかわかりませんが、ただ人生観として「欲をかくとしんどくなる」という実感があります。ですが同時に欲は本能で生命力みたいなものだろうから、それが抑えられた状況というのはある意味、楽かもしれないけど不自然なのかもしれないとも思います。
マインドフルネスとは目の前の現実に対してだけではなく、その現実に対して嫌だとかもっと欲しいという自分の気持ちに対しても無抵抗になるとうことなのかなとは想像するのですが…どうしてその気持ちを大事にして行動しても幸せになれないのだろう?という疑問が湧きます。本当の気持ちではなく人の目や周りの価値観に振り回された気持ちだったからでしょうか…?いったい何歳になったら自分の心からの望みというのがわかるのだろうか…?と頭を抱えますが、これも最近流行りの自己実現欲求でしょうか…(笑)
マインドフルネスをはじめとして瞑想と呼ばれるものが目指しているものは、一言でいうと、
相対化する技術です。
徹底的に雑念を受け入れていくスキルです。ですから、幸せになるためのものではありません。
1960年代にマインドフルネスを世に広めた僧、ティック・ナット・ハーンの言葉があります。
瞑想は幸せな人がやるものです。そうじゃない人は、瞑想を始める前にまず幸せになりましょう。
この話は、かつてソレアに相談に来ていた人から教えてもらった話ですが、そのときなるほどーと思いました。ですから自己啓発本に見られるような「マインドフルネスで幸せになろう」というのは主客が逆転しているのですね。その趣旨なら本は売れるかもしれませんが、マインドフルにはなれません。
つまり「幸せになる」ということも相対化していかないと、幸せという雑念に囚われてしまっている、ということです。
マインドフルネスの状態は無目的、といってもいいかもしれません。
流れに逆らっている自分も、流れに従っている自分も、それらをひっくるめて相対化していくのがコツです。この作業の果てに、結果的に幸せになるかもしれませんが、それはそれです。そのことにも囚われない。
まとめると
マインドフルネスは、日常の現象ー雑念ーを徹底的に相対化していくスキルで、それは結果的に幸せをもたらすかもしれないが、それはそれ、気にしない。
そんな感じで瞑想を続けてみてはいかがでしょうか。これを通して、結果的に、自分の本当の望みにも気づいていくことができるでしょう。
遅ればせながらのお礼を失礼します。高間先生の慈しみ深いお返事を咀嚼する自信がなく休日のアルコールの力を借りて今これを書いてます。
「マインドフルネスの状態は、無目的と言ってもいいかもしれません」
大学の現代哲学の授業を思い出しました。学者の名前は忘れたのですが教説は「無目的」それに紐づくワードは「同義反復(トートロジー)」だったように思います。そしていつかの質問箱のお返事の村上春樹のマラソンが浮かびました。村上は結果など求めずにルーティンの中に自分の真理を何か感じてるんだろうか、と。そしてそれは高間先生もで。ストイックな人に人が惹かれるのは、夢をみずに「目が覚めている」からなのかもしれない、幸福とは遠い憧憬ではなく、日々の何でもない営みへの姿勢なのかのかもしれない。そんな風に思いました。関係ないですが今夜は見事な朧月です。