先日、言語化についての質問が質問箱にありました。それに少し関係するのですが、詩など言語を手段にした芸術の楽しみ方を教えてください。
というのは世の中には絵画、音楽、舞踏、料理、お香など様々な嗜好や芸術があります。それらは五感に直接訴えるので楽しむことがある意味で容易いです。言語化や分析は「感覚と感情」の後についてきてその芸術を深く楽しませてくれますので言語がノイズになるより味方になってくれます。
ところが、詩は最初に言語処理が行われるので上述の他のものよりも感情に夾雑物が混じりやすく、感じて愉しむのが一段レベルが高いように思います。同様の理由で、保守言論人の方が仰るように日本語の美しさというものも理解が難しいです。万葉集や古今集もなんかぴんとこないのですよね。
詩の楽しみ方を教えてください。
詩の楽しみ方という難題についてわたしには語る資格がないように思います笑。
ですので、わたしがどのように詩を楽しんでいるのか、その話だけになってしまいます。
実は私は詩を全体的に読んではいないのです。ある詩があったら、その中の一部、特に自分にささってくる部分の周辺しか読んでいません。例えば、宮澤賢治の「雨にも負けず」だったら、最後の部分「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ」ここですね。
それだけを胸のポケットにしまっておきます。特に「デクノボー」にはこころのマジックで赤線を引いておきます。
他の詩人も同様です。詩というものはそんなものと思います。歌詞もそうですね。ある一部のみリフレインします。
ただ、そんな中にも全体的に読んだり歌ったりする詩や曲もあります。
わずかですが、そういうものに巡り合えると、それはあなた自身に接近していくでしょう。しかしそういうものはそう簡単には巡り合えない。何度も何度も部分的読みを積み重ねた末に出会えるものかもしれません。
もしそういうふうに全体的に読めるものに出会ったら、あなたの秘密にしておきましょう。手垢にまみれないように。わたしも、もちろん秘密です。質問箱のような公けの場では語れません。悪しからず(笑)。
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詩は部分で読んで全体的に読めるものに逢ったなら秘密にしとく。なるほどです…。秘密ってあっていいんですね。私も詩は縁遠いのですが拝読して読みたくなりネットですが宮沢賢治の詩をいくつか読んでみました。やはりわからないものが多かったのですが次の二行の詩は高間先生が時々話される感情とマインドフルネスのお話が思い出されたました。
さつき火事だとさわぎましたのは虹でございました
もう一時間もつづいてりんと張つて居ります
(宮沢賢治詩集『春と修羅』報告/一九二二.六.一五/青空文庫)