愛着があったのか無かったのかという点は治療者にとっても相談者にとってもキーになるように思え高間先生のご発信から色々学ばせて頂いてます。最近「流れ者」というお話が何度かあり、そのことに対する心の反応で愛着の有る無しがある程度わかるのかな…?と思ったのですが…短絡的でしょうか?流れることに抵抗が無ければ愛着がなく、抵抗があれば愛着があったのかなと。関係ないですが学生の頃の合唱曲『流浪の民』を思い出しました。「なれし故郷を放たれて夢に楽土を求めたり」なのでこれもホリーのように故郷はあった(愛着はあった)けど、流れざる得なかった人の歌でしょうか。夢に楽土を求めたり、というのもホリーぽく思いました。
愛着のあり、なしは、おっしゃるように見立ての中の中心部分になるものだと思います。わたしもそれを支えにして見立てを構築しています。
大きな枠組みとしては、流れ者=愛着障害=愛着はなかった、と考えていいかもしれません。大枠はそれでいい。しかし日常の臨床で、流れている人々に接していると、それは普通の人、愛着のある人にも、せちがらい世の中で生きていくには、流れ者であることがひとつの生きる答えになっていると感じることがあります。
こういう人々は愛着は在っても、流れ者を標ぼうしていくでしょう。そして、それはそれでいいのです。生き方ですからね。
作家の五木寛之は、十分に愛着のある人と思いますが、彼もデラシネということを言っています。若いころから。デラシネも流れ者のことです。だいたい若い人は、流れ者に憧れたりもするわけです。そして少し流れてみる。ユーラシア大陸を横断、アフリカ大陸を横断したりする。流れ流れて、ロードムービー的な生き方に憧れたりする。ジャズメンなんてその典型かもしれませんね。
例に出していただいている「流浪の民」も同じことでしょう。「青年は荒野をめざす」です。これも五木寛之の歌でありジャズ小説ですね。
愛着のある人は誰しも、流れ者への憧憬があり、いつしかそれに決着をつけなければいけないときがくる。愛着のない人は誰しも、流れ者への憧憬があるわけではないですが、一生流れて行く。流れるという行動は一緒でも、その背景が違うのでしょう。