はじめまして。Kindle読ませていたたきました。そして第6講「見捨てられても平気」気になりました。私はずっと「依るべ」を探して来たように思います。ですが見捨てられても平気な感覚もあります。
依るべがなく身の置き場がないけれど、見捨てられると直後はショックをそれなりに受けますが、ほどなくして馴染みの場所に戻ったような安堵感もやってきます。しかし依るべはずっと探してるし、まだ諦めてないように思います。
愛着が無い人は事実依るべはないかもしれませんが、第6講にある通り見捨てられて不安は無く、依るべが無いことも当たり前でそもそも探さないように思います。
だとしたら見捨てられてホッとするという気持ちは自分を騙してるのでしょうか?そう自分に言い聞かせることで傷つくことを回避する未熟な防衛規制「躁的防衛」などでしょうか?
心の成長には自分と向き合うことが必要なら、依るべに焦がれ続ける心とどう向き合えば良いのでしょうか…ヒントいただけたらありがたいです。
「鍋がこわい」という病を読んでいただきありがとうございます。
あなたが愛着に関して、どういう状態の人かは分かりませんが、見捨てられても平気であるということは、愛着障害よりの方かもしれませんね。
寄る辺というのは、どの時期かは人によって違いますが、誰でも探すと思います。そして愛着障害のヒトは、いつかそれを探すことを止めます。あきらめます。潮が引くようにそれに執着することを止めていきます。そして正真正銘の愛着障害らしさが出てきます。
そういう状態を通過して、愛着障害からの回復が始まります。ですから、愛着障害のヒトは、まずは自分の愛着障害らしさに直面することが必要になってくるということですね。
そうすると、それは愛着に詳しいカウンセラーと一緒に探っていくのが早いでしょう。寄る辺に焦がれる気持ちも早い段階で収まっていくかもしれません。それによって回復へ向けてスタートするでしょう。
そして、自分が何であるのか、誰なのかを認識すること。ここから回復が始まるのは、愛着障害に限ったことではありません。この認識と回復は、どんな悩みに対しても共通にあるものでしょう。