『愛着不全と普通の人の愚痴の違い』ってどんな塩梅でしょうか?愛着不全(成人学童期)というものを知ってから、人との距離感が近く、話す内容が不平不満に満ちてるように感じる人を愛着不全に思えてしまうのですが、そうやって我慢なく素直に自己主張を出来てる時点で愛着に問題が無く普通の人なのかな?とも思います。
自分自身、愛着不全ぽいというか禁欲的だったり正しさや理想に柔軟性なく縛られてる人間なので、ごく普通の範囲の健全な愚痴や自己主張を自己中心的で子供っぽい言動に感じてしまってるのでは?とも思えます。
だから私の方の基準がおかしいのかな?と困惑することもよくあり(笑)ご回答が難しい質問にも思いましたが、いつも引っかかることなので、質問させて頂きました。
また自分のことじゃなく他人のことを聞く内容なのですが、いつもこういうタイプが何故か気になるのは、自分がゴミ箱に捨てて来た、人格要素なのかな?とも思いまして。
なかなか簡単には言えませんが、相手のせいにしやすいのが愛着不全の人々ではないでしょうか。
ですから愚痴を言う場合も、そのことについてあーでもない、こーでもない、という話になりがちです。納豆みたいですね。聴いているほうもスッキリしません。普通の成人の人は、愚痴もカラっとしていて、少し吐いてハイおしまいという感じです。切れ味がいいというか。だから聴いている側もスッキリします。
愚痴を聞いているほうが成人の精神年齢だった場合は、このスッキリ感があるかどうかで、相手の精神年齢も分かるかもしれません。自分の感覚をリトマス試験紙にしているので分かりやすいですよね。是非この方法、使ってみてください。わたしがいま発見した方法です☺。
とはいうものの、話は変わりますが、カウンセラーというのはこういう自分の感覚を大切にしています。例えば、この話は分かるな、この話は分かりにくいなという感覚がある場合、そのスッキリ感がないのはどういうことなのかを考えていたりします。こういう第六感のようなものって大切です。
お返事ありがとうございました。「納豆」に思わず笑ってしまいました。先生のたとえが絶妙なことに加え「あ、私が納豆だ」となったので(笑)そして周囲の大抵の友人知人の愚痴はまさしく「切れ味のいいスッキリ感」だなと色んな人の顔が浮かびまた。アサヒスーパードライみたいな?
そんな人達に私が終わりなく粘り続ける納豆愚痴をかました数々も同時に思い出され…この猛暑での発汗が更に促進されました。
ゴミ箱に捨てたもう一人の自分と「自分は違うけど〜」などと、他人事みたいにのたまってましたが、自分と同種の納豆臭にただただ、反応してただけみたいですね。夏バテ防止に明日は納豆とオクラのネバネバ素麺でも食べながら「自分はタダシクテ、オカシイのはアッチ」となってしまう自分の自動思考についてネバネバネバネバと考えてみようと思います(笑)
PS/カウンセラーさんの「わかる/わかりにくい」すごく気になります。