こんにちは。いつも本当に勉強になります。最近の質問箱でとくに気になり理解したいと思ったお話がありました。それは「うしろのほうで自分の行動を見ている別の自分/自分の行動をジャッジするのは思考的ないつもの自分でうしろから見ている自分が回復の鍵」自分より他人の感情を優先して行動する自分を嫌だというお気持ちは、自分にはとても正直で「大切な感情」に思ったのですが…これも思考なのでしょうか?ほおっておくことではなく、拾うべき「自尊的な感情」に自分なら思えてしまい、まだ理解が及びません。こういう感想はありがちな誤読と思ったので、早速ですみませんが質問させて頂きました。
どの質問と回答に対してのご質問か分からないので、読んで思ったことを書いておきます。
嫌な人に対して、本当は怒りたいのに怒りが出ないということがあります。これが自分をジャッジしている思考的な自分による行動です。
親密な関係のパートナーに対しては怒りがでるのに、本当に出さないといけない相手には怒りがでない。自分が悪いと思って終わらせてきた自分が情けなくて仕方がない。これがうしろから見ている自分ですね。
こころのほころびはまだまだ回復はしていないが、自分の複雑な入り組んだ感情がわかるほどに客観的な状態で居られること。これが大切です。この体験を繰り返す中で、結果はあとからやってくるでしょう。
そして、信頼できない相手には感情が出せないのだということに気がつく。思考によるブロックがかかっていることに気づく。怒りをブロックするのですからかなり強力な格納庫が必要でしょう。銀行の金庫のような分厚い壁が必要でしょう。ここまでくると、また一つ上のレベルに持ち上がります。
こういうことがカウンセリングの中で起きてくるのです。ですから、カウンセリングでは、ジャッジすることなく経験していることを、できるだけ忠実に話していただくことが大切になってきます。
自分の中で起きていることがまだつかめなくて、自分が頼りない感じはあると思います。まだ自分でいいという感覚がなくて、これが自分だくらいの感覚しかなくても、そういう客観的な視点があるだけでも今は十分です。ゆっくりやっていきましょう。
■自分を拾っていくこと、助けていくこと
こうやって自分の気持ちを拾っていくことです。たとえば母親に求める気持ちをぶつけても気づいてもらえなかったとします。子どもにとってはこれは重大事で、受け取ってもらえなかったかなしみはずっと残り続けます。
しかし、(母親には受け取ってもらえなかったかもしれないけれど)「わたし」も受け取っていたよ、という声がこころの中から聞こえてきたらどうでしょうか。
この「わたし」は自分の中の成長した私です。これこそ自尊感情でしょう。真我ともいえるものかもしれません。ハイヤーセルフでもあり自分の中の神さまでもあるでしょう。ありていに言えば自己受容の話ですが、母親には分かってもらえなかったけれど、わたしの中の大切な人には伝わっていたのだという気づきです。
ここまで至れば、母親をあきらめることができるかもしれません。
ご質問とは違う方向の回答になったかもしれませんが、最近のカウンセリングでお話されていったクライエントの方々の言葉を拾ってみました。今回の質問につながるかと思いましたのでシェアさせていただきました。
お返事ありがとうございます。ちょうど怒りを適切に出せなかったことがあり興奮して眠れないほどで(^^;深夜このお返事を繰り返し拝読させて頂いてます。理解はまだですが感覚的にとても自分に必要なお話に感じてます。読みながら「今思ったことは“客観的な視点”なんだろうか?それとも“頭で捻り出した思考”?」と早速また混乱してますが(笑)こういう頼りない混乱から少しずつ「うしろから見ている自分」が育ってくれるのかな?と理解させていただきました。その先に親が取りこぼしてたものを「わたしも受け取ってたよ」と応えてくれる「成長した私」との出会いがあるのですね。諦めずにそこまで進みたいです…。私はまだ成長した私ではなくて「しんどいね、でも一緒に居るから」と伴走する同い年の頼りない小さい私が居る感じかなと思いました。頼りないから気は抜けないけどこの子はずっと居たしそのことを私は知っていた。だからなんだかんだそれなりにやってこれたのかもと思えたら少し涙が出ました。