高間先生こんにちは!
ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』をスタエフで紹介されてましたよね。中学生の時に担任に薦められて読んで以来読み返してみました。そこでふと思ったのですが、虐待は知能や発達に問題がある親が計らずもしてしまうものですよね?ならば虐殺もやはりそういう人間だからこそ可能だったのでしょうか?
アイヒマンはせっせと大量のユダヤ人を収容所に送ったにも関わらず、裁判では全く悪びれず無罪を主張したようですが、彼にも知能や発達に問題があったのでしょうか?
もしそうだとしたら、この件を「凡庸な悪」と評価したアーレントや、極限心理を実験して導き出そうとしたミルグラムはある意味で「ファンタジー」をでっち上げて何とか心の平安を維持しようとする、か弱い“被虐児”のようなものになってしまいますね(^_^;)
アイヒマンの伝記をざっと読み返してみたのですが、大量殺戮しそうなエピソードは見当たりにくいですね。たぶんそういう情報統制がされているのかもしれません。というか、誰でもアイヒマンになるという不安があったほうが色々な場所で都合がいいのかもしれません。
だいたい不安をあおる人はその背後に金が動いています。コロナ不安もそうですね。アイヒマンとはくらべものにならないですが、不安のあるところにお金が転がっているわけですから、それを巧妙につかみにいく人がいる。
話がずれました。
わたしの試論でしかありませんが、アイヒマンは知能の問題もなければ発達の問題もなかったのでしょう。しかし正真正銘の人格障害であったのではと思います。反社会性パーソナリティをもつ者です。実際、彼らのような人物は周囲にはあまりいません。しかし、正真正銘の人格障害な人は、それを周到に隠す術には優れています。
外見はいたって普通。その普通の中に冷たい悪が存在しているので、インパクトがあるのです。羊たちの沈黙のように。心理に詳しい人でもそういう人を見分けるのは至難のワザでしょう。なぜなら彼らのほうが一枚も二枚も上手ですから。ですからネットという簡単に情報を取り出せる世界には登場してこないのです。情報の網にひっかからない。そこに戦慄があるのでしょう。
決して凡庸ではない世界です。
以前、高間先生の質問箱の記事で、アイヒマンと虐殺、そして反社会性パーソナリティ障害の話題が出ていました。記事によると、反社会性パーソナリティ障害の人は、その障害をうまく隠すことができ、外見上は普通に見えると書かれています。しかし、一方で、バットを持って病院に行くような人もいるとも述べられており、これは明らかに隠しているとは言えません。つまり、反社会性パーソナリティ障害にも様々なタイプがあるということですか?