いつも拝読させていただいております。先日の質問箱が興味深く再び失礼しました。人生において乞食が神である可能性をみると人生が転回するかも…とのお話です。私は自分の中のどうしようもない怠け者の乞食にだいたいにおいて負けてきました。それでどうにかなることもあったし、当然ですがどうにもならないこともあり、真っ当に頑張ろうとしてもありましたが、付け焼き刃で上手くいったことがありません。だいたいにおいて、どうしようもない人生です。
頑張って来た人には乞食は神になるが、頑張って来なかった人間には乞食はただの乞食なのでしょうか。
自分のような人間には、たとえば孤独な戦いを続けた横井軍曹や小野田少尉のような軍人さんとかが神様なんでしょうかね…?とくに帝国陸軍の凛とした存在感を賞賛され軍国主義の亡霊とも批判もされた小野田さんの人物像は、最も自分の中に無いもので、人生で会う神とは、捨てて来た選択肢でありパーソナリティ(影)のことですか…?
乞食は誰にとっても忌み嫌う選択肢ですよね。そうなると乞食にとっての神とはいったいどんなものになるのでしょうか…?
結論からいうと、乞食=怠け、神様=頑張りという等式は成り立ちません。
■乞食と神様
わたしの乞食と神様の話は、一般的な話かと思います。
「乞食は誰にとっても忌み嫌う選択肢ですよね。そうなると乞食にとっての神とはいったいどんなものになるのでしょうか…?」
この問いですが、だいたい神様だと分かっていたら人は親切にします。しかし目の前の人が神様か乞食かどちらなのかは分かりません。だから、どんな人にも同じ態度で接しましょう、という教訓として捉えていただければいいでしょう。
身なりがボロボロでも、お金が全然なくても、何の資格も持っていなくても、それでもその人に親切にしてあげなさい、という意味です。所有物や外観で人間を判断してはいけません、という話です。
そうやって人に接していると、あなたが窮地のとき誰かが助けてくれるかもしれません。しかしそれを期待して親切にしていても仕方がないので、そういうことを考えずに、目の前の人はすべて神様と思って行動していると、乞食が神様だったということもありえるでしょう。
■怠けと頑張り
質問者の方は怠けると乞食に、頑張ると神様になるという文脈で捉えています。アリとキリギリスの寓話でいうと、アリは神様に、キリギリスは乞食に、という感じでしょうか。
哲学的にはそういう思想もあるでしょうが、心理学ではそうとはいえません。
- 怠けというものを「ボーっとしている状態」と捉えると、これは脳内が Default Mode Network のアイドリング状態です。つまり適度なリラックス状態であり、パフォーマンスが最大限に発揮される状態です。
- 頑張りは緊張状態でありパフォーマンスを阻害する条件になります。
適度なパフォーマンスを出していくには、怠けた状態で少しの緊張を投下してやるくらいがちょうどいいでしょう。
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