内省ができる人とできない人の違いは何でしょうか?自分は後者です。瞑想やジャーナリングやカウンセリングなど内省のための色々をやって来ましたが変わりませんでした。ソレア質問箱には内省を習得されてるクライアントさんの実際の声が多数あり参考になります。コピーのようになっても内省とはこういうものかと読ませていただいてるうちに自分もそのうち少しずつできるようになるでしょうか。それともマインドフルネスの原則に従うなら求めることをやめて「ああ今日も自分は内省できないようだ」と眺めるように感じるに留めて、もうできるようになろうとか思わない方がいいでしょうか(多分に脳機能の問題もあるかもしれませんし…)
内省とは、自分を振り返って「あれはちょっとダメだったな…」と反省する能力です。もっと抽象的に言うと、自分の深みに降りて行く力と言えるでしょう。
村上春樹の「ねじまき」に出てくる主人公が、時々、井戸の底まで降りて行きますが、あれが内省です。
ということは、この内省、何かをやればできるようになる代物ではなさそうです。
瞑想や日記を書く作業をすると内省している気分になるかもしれませんが、もともと瞑想や日記は何かを目的としているものではありません。世間的に目的として掲げられているかもしれませんが、そうしないと誰もやろうとしないだろうから、あえて掲げているだけです。
瞑想などは、本来は、そういうものではないはずです。それでもあえて瞑想を勧めるのは、そこが「不時着」地点になる可能性もあるからです。目的地でなくとも、不時着できれば十分なこともありますから。墜落しないわけなので、もうそれだけで十分です。
完全に、めでたしめでたしでなくとも、OKなのです。色々やっていらっしゃる方には、この「めでたしめでたし」なコトを、追い求め続けている方もいらっしゃいますね。
でもそんな方に「めでたし」な結果などないから考えないようにと言っても、それは砂漠に水を注ぐようなもので、何の意味もありません。彼らが内省できるようになるまでじっと待っているか、あるいは不時着してもらうか、この二択です。
ここでまた内省ということを考えると、内省とはある意味、精神的に大人か、またはそれに近い状態でないと難しいかもしれませんね。
カウンセリングで、長く、地道に話をされている方には、この内省力が付いてくるのは間違いないようです。精神年齢が上がっている証拠です。その先に、不時着地点が見えてくるように思います。
自分は「めでたしめでたし」を追い求めてるなと思いました。まぁまぁ幸せでまぁまぁしんどいこともあるという人生の当たり前をどうしても受け入れられないようです。すごく幸せでしんどいことは一才ない、そんなことはありえないと頭ではわかりつつも求めないと力が全然湧いて来ない自分がいます。不時着したとしてその後はどうなるのだろうと気になりました。自分は何度も不時着して今は不時着地点が沖ノ鳥島のようでもう本当は島でも何でもなくて無理矢理コンクリで固めて島のフリをして領有権を主張してるけど批判に戦々恐々してるような感じだなと思いました。コメントでまた自分語り失礼しました!内省と精神発達がいかに得難いことかわかりました。何度も読み返したい示唆深いお返事を誠にありがとうございました!