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まず、ちゃんと文献を読みくだしたわけではないのでユングの影(シャドー)について間違ってる気もするのですが、シャドーとは生きてくために捨て去った欲求やそれに付随した性格要素という認識です。高間先生の愛着障害のご説明を拝読し愛着障害はかりそめの思春期を除いて執着がなく、ゆえに依存心もないように理解しています(親密の恐れの影響もあり依存心の対極にいる印象)

しかし世の中の人生早期の(家庭環境による)複雑性PTSDやトラウマ治療の論考などを読むと、トラウマを持ってる人は空虚な自己(アイデンティティを持ち得ないため)苦しい空虚を埋めたがる欲求(依存心)が強く、同時にトラウマによる人間不信からの他人を拒絶する相反する心性が葛藤している、との主旨を散見します。高間先生のお話からの理解からすると思春期年代の愛着障害はそういう心性はありえると思うのですが、思春期が抜けた愛着障害のドライさ(高間先生のお言葉をかりると〝真の愛着障害らしさ〟を説明してる文章は勉強不足でうまく見つけられません。それでタイトルに戻るのですが、シャドーという概念が持ち上がってきます。乳幼児で依存心を諦めた愛着障害には心の深いところに赤ん坊のままの依存心があるのでは…?と。それが常にか時々かはわかりませんが本人や治療者を翻弄し、それが観察され文章化され愛着障害(トラウマを人生早期に追った人物)の臨床像として出てくる理由なのではないかと…。まとまりのない文ですみません。おたずねしたいのは、

❶愛着障害のシャドーには乳幼児のままの依存心があるのでは?

❷世の中の愛着障害像は境界性人格障害に近い印象を受けるのはなぜか?(これに関しては高間先生が何度か言及されてる愛着障害をスペクトラルに捉えるためセンセーショナルな愛着不全が愛着障害として文章化され易いことが想像できるのですが、トラウマ専門の臨床家の論考なども散読しているとそういう思春期メンヘラ的な依存心ではなく深い層に格納された制御不能な暗く強い依存心が影響を与えているような印象を受けるので…。自分の高間先生の愛着障害の治療論の理解は〝世の中の当たり前の愛着を実は求めない自分に出会う〟ことがキーのように思うのですが、前述のように人生初期に遺棄された依存心を拾いに行くような臨床論を目にすると(自分の誤読でもしかして先生方は同じことをされてるのかもしれませんが…)並行世界のように臨床家ごとの愛着障害像と治療論、回復像が浮かんでしまい質問させて頂きました。

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ソレア心理カウンセリングセンター 公開状態を変更しました 2024年3月7日