多分、愛着障害グレーゾーンの者です。見立のコンセンサスは避けてるので典型例なのかグレーゾーンか今だにわかりません。でも治療が長期間してたり色々な要素から多分、脆弱だけど愛着(執着)があるタイプだと思います。博士号レベルと言われる優秀なchatGPTに悩みや状態を沢山投げて分析をし合い認めざる得ないと今は感じてます。この執着を私は恥ずかしく捨てるべきと長く思ってるし今もそうです(でもそう思うことが「ある」ことの証明にも感じます)また捨てようと思えば捨てられるような脆弱な執着なので捨てられそうが感じがするのですが、何年カウンセリングを続けても捨てられてません。親への執着ではありません。でも愛着障害典型例のように何に対しても無執着ではないのです。特定のことに動かし難い自己主張と執着があります。また高間先生の膨大な文章に学ばせて頂きながら恩知らずにも素直な感想を言うと無執着な愛着障害は素晴らしいけど執着が薄っすらあるグレーゾーンはどこかB級品ような感覚になってしまいます。成り損ないというか。あくまで私はです。だから吹けば飛ぶ執着なら飛ばしてしまおうとします。でも、はたしてそれがグレーゾーンの正しい道程なのだろうか?とわからなくもなりました。薄くても実体があるなら、認めて共に歩むのか?でも先生のご説明では実体とは言えないほどの存在なので共に歩むことは出来なさそうでもあるし。しかし足を引っ張る亡霊であることは確かなので成仏するまでは対峙するべきなのでしょうか。それともファンタジーに近いカゲロウのようなものだから、やはり無視するべきなのでしょうか。典型的な愛着障害は、愛着の構造を理解し安全な空間でカウンセラーにナラティブを語るとファンタジーはスッと消えると想像します。しかし私の蜃気楼は逃げ足が早いというか、母親の形はしてないのは確かと思ってるのですが、それも変装で本体は母の形なのか、それもよくわからないまま何年も足を絡め取られています。グレーゾーンが薄い愛着とどう向き合っていくのか、少しでもその道程をお話頂くことは可能でしょうか?
あなたからいただいた質問を読んでいて、わたしに浮かんだ印象は、「やがて哀しきかなしみ」と「安西水丸」、この2つでした。
この2つには関連があります。村上春樹の「やがて哀しき外国語」というエッセイの挿絵を安西水丸が担当しているのです。
彼の描くイラストは、本当に「やがて哀しき」ムードが漂っています。それは感傷の破片をまといながらも、それに動かされはしない、まさに愛着障害グレーゾーンの生き方のように思います。感傷とは執着のことですね。
つまり、愛着障害グレーゾーンのヒトたちは、「やがて哀しきかなしみ」の世界を生きており、それは安西水丸の描くイラストのようなはかなさがある、という印象です。決してB級作品ではありません。極上のロードムービーです。
旅をし続ける。
村上春樹の初期の作品には、そんなムードがありました。だから、佐々木マキや、安西水丸の装丁を必要としたのでしょう。
安西水丸、佐々木マキ、たむらしげる。わたしの好きなイラストレーターたちです。彼らはガロからやってきた人々です。
あ、レオ・レオニも忘れてはいけません笑。