いつも、先生の質問箱や記事を拝見させていただいております。
以前同じ様な質問を送ったのですが、パスワード変換のメールが届いており、送れたのか心配で再度送らせて頂いております。もし届いていましたら、重複してしまい申し訳ありません。
以前先生の記事の中に
愛着に問題をもった人は、喧嘩が怖いです。「喧嘩をしたら人生の終わり」くらいに考えてしまいます。
と言った文があり、少し気になったので質問させて頂きます。
つい最近、岡田斗司夫さんと山田玲司さんが対談するYouTube動画で無痛主義と言った言葉を耳にしました。これは、人とのぶつかりを極端に避けて傷つく事を恐れながら生きてきた結果孤独になってしまう愛着不全や愛着障害の人の事なのではと真っ先に頭に浮かびました。
喧嘩をしてもそれを乗り越えて絆を深めると言ったことはやはり、愛着に問題がある人々には難しい事なのでしょうか?
喧嘩が怖いと感じるのは今までに親子で本気でぶつかったりした経験が普通の人より少ないからこのように思うのでしょうか?それとも、何かしら親子関係でトラウマ(虐待や見捨てられた経験)などから極端に恐れる様になるのでしょうか?
長文の文章で申し訳ありませんが、ご教示頂けると幸いです。
無痛主義という言葉は初めて聞きました。調べてみると、「痛みを伴う経験を避けること」でした。ここから類推すると、無痛主義の人は、愛着関係を刺激するような「痛みを伴う経験」を知っている、ということになります。つまり愛着不全よりの人が無痛主義と言えそうです。
愛着障害の人は、もともと母親との愛着関係が成立していないため「痛みを伴う経験」を体験していないと言えます。つまり「痛みを痛みとして感じない」ということです。ですからそこから積極的に逃げることもありません。
「避けること」という部分だけを抽出すると、回避型の愛着スタイルに見えますが、そこに注目するのではなく、その体験を体験として実感できるか、実感しないか、のほうに重点を置いて考えると、上記のようになるかと思います。
愛着不全の人は、親とぶつかった経験が少なかったり、ぶつかったとしても中途半端に収束していたり、あるいはずっと思春期が続いていたりするので、喧嘩が終わっていない状態です。つまりそこを乗り越えていない状態と言えます。
愛着障害の人は、母親との愛着が切れているので、そもそもぶつかる対象がないので、ぶつかるという行動も知りません。ですから喧嘩して親密度を深めるという体験の存在も知りません。
しかし、愛着障害グレーゾーンの人は、薄い愛着が形成されているので、恐々とぶつかることはあるかもしれません。しかしこれは「ぶつかる」とは言い難いもので、「思春期やってみました」そんなニュアンスが漂っています。ベタベタした愛着まみれの行動ではなくて、どこかクールな風が吹いています。