2
0件のコメント

こんにちは。以前ご回答いただいた者です。その節はありがとうございました。またの質問失礼します。

私は時々いわゆるスピリチャル系の動画を観ます。先日も「ワンネス」についての動画を見ていました。ワンネスは全てが一体化してる感覚とか、生命の根源的なエネルギーとか、ユング心理学でいうところの集合的無意識とか普遍的無意識と似たようなものと私は思っています。また東洋哲学の中ではユングよりもう少し肯定的なニュアンスを感じます(ユングだと肯定的な側面と危険な側面の両方を言ってるような・高間先生もユングとお同じく下手に触れてはいけない領域と言われてる感触です・間違ってたらすみません)そして流行りのスピはもっと良い側面を拡大解釈して緊張感がない雰囲気に感じるのですが、その緊張感のない良いとこどりのお花畑感が個人的には楽で時々接種してる感じです。

話がズレましたが、ワンネス推進派曰く苦しみの原因はその「大いなる源たるワンネスに切り離された苦しみ」となります。それは東洋哲学から感じたニュアンスにも近いです。そして切り離されると「私」としての「個人」が切り出されて、この切り出された私は、人と比較したり、自分にダメ出したり、ひとりぼっちの不安におののいたりと、そういう苦しみを絶えず感じるそうです。そしてヨガや瞑想などを通してワンネスに繋がってくると「私」という個が薄くなり、自分と他人の区別も薄まり、人に対して緊張や怒ることが減り、親愛を感じるようになるので幸せになると説かれます。あなたもわたしも元は同じところから分岐した、あるいは分岐すらしてない、本当は同じ存在なのですよ、それがワンネス、という感じです。

夏バテとその他諸々で疲弊してたので、久しぶりに「いいなー」と思いました。そうなれるもんなら、なりたいなーと。

でも「私がある苦しみ」とは、愛着がある場合で、愛着がない場合は「私がない苦しみ」なのでは?と、ふと思いました。

私はごく小さい頃から私がなんとなく希薄でした。それは「気が弱いから」という性格の特性かと思ってたのですが、思春期前期あたりに上記のワンネスという概念に触れたら、非常に相性が良く感じました。「自分」がそもそも希薄で周りの同世代の子のように自己主張するのがよく分かりませんでした。我慢して自分を抑えてとは違くて主張という概念がない感じです。だから自己主張でぶつかり合いながら獲得する繋がりというのがどうしても理解できなくて所在なさを常に感じてました。なので、そうではないアプローチからの人と世界との繋がりという概念に救いを感じました。

その経験から10代の頃から界隈の本を読んでは時々ワーク的なものも試して実感としてワンネスみたいなものがわかる感覚があります。そして自分なりに幸せを感じる方法や世界や人々を肯定的に見る術を作りました。ですがそれは脆いというか盤石ではありませんでした。ある日突然効果が無くなったり再び使おうとしても使えなかったりしました。でも経験として非常に有用だと思うし、それしか幸せはわからないので懲りずに定期的に期待をかけて戻ってくる感じです。

愛着というのは母と子という親子間のつながりですよね。その層の下の下のずっと下に大きな繋がりがあると仮定して、親子間の繋がりを経験せずにそこにアクセスすることはできないのでしょうか?愛着を経由せずにそこに行こうとすると別の場所(ユングやヨガや禅がいう魔的な場所)に行ってしまうのでしょうか?)

質問箱のとあるご回答で愛着のある人はその古い愛着の記憶につながりましょう、それが無い人はカウンセラーとそれを形成しましょう。という旨を仰られてた記憶があります。まずは親子間なり双子自己対象なり「現実的な二者間の繋がり」が大前提なのでしょうか?それを飛ばして癒しや人や世界とのつながりは出来ないのでしょうか??

10代の頃から瞑想をやられて、心の世界の入口は催眠で、愛着臨床に至られた高間先生に上記の疑問をおたずねしたく質問箱させていただきました。

何となく仮定として思うのは、アマゾンの未開の地でシャーマンとして生きるのでない限り、親子間や双子自己対象で、現代人としての繋がりをインストールしないことには、この現代社会では結局生き難い。ということなのかな?と考えてます。長文すみません。

質問は回答が閉め切られています
ソレア心理カウンセリングセンター 公開状態を変更しました 2024年10月23日