愛着障害・安全基地と双子のカメレオンの話について、とても興味深く読ませていただきました。これまで自分は何者かでなければならないと脅迫的に感じていたこともあり、決まった色のないカメレオンのままでも双子のような親友が見つかれば生きやすくなるという視点がとても新鮮でした。
さて、双子のカメレオンの説明の定義の中に「同じシャドウを持っている」というものがありましたが、自分のシャドウがよく分からず自分なりに調べてみました。すると『「影」(シャドー)は、自分の「生きられなかった反面かつ半面」であり「意識(自我)の否定した要素」』と書かれた記事が出てきました。こうした部分は自分の無意識の部分に沈んでいるかと思うので非常に自覚しづらいのではないかと思うのですが、先生はどのようにお考えでしょうか。双子のカメレオンを見つけるには、必ずしも自分のシャドウについて自覚的である必要は無いのでしょうか?
カメレオンはあなたの近くに居ると思いますが、それを認識することはできません。ある期間付き合ってみて、ようやくこの人は自分のカメレオンだったなと分かる程度です。
これはハイヤーセルフにも似てますね。ハイヤーセルフとか霊位の高い人というのは、意識すると取り逃がしてしまいます。無自覚的な状態、半自覚的な状態で出会えます。カメレオンも似たようなものだと思います。
さて、シャドーですが、自分が生きてこなかった側面なので、それを自覚するのはツライ作業ですが、40代を過ぎると、影と出会わざると得なくなります。しかし「影」を影と認識するのも至難のワザかもしれません。それはカメレオンやハイヤーセルフと同じ質のものでしょう。
例えばカウンセリングの中ではそれと出会う可能性が高くなります。なぜならカウンセリングは自分の影を自分の中に統合していく作業だからです。それと同じようにカウンセリングをしている中で、カメレオンを発見することもあります。
自覚的になると取り逃がすわけですが、半自覚的、半分覚醒している状態では、彼らを発見しやすくなるのです。これはカウンセリングというものが、どことなく催眠的な要素を含んでいることに由来するからかもしれません。
この「要素を含んでいる」というのが大切です。バリバリの催眠になってしまうと、返って発見しづらくなる可能性があります。つまりハイヤーセルフセッションというものがありますが、そのセッションで出会ったハイヤーセルフは、本質を取り逃がしたセルフのカケラだったりします。
半分覚醒というのはマインドフルな状態も含まれます。マインドフルネスは覚醒レベルが少し下がった状態で実現されるものかもしれません。
また、カメレオンの定義に「同じシャドーを持った」という限定がついていますが、あの定義は5年ほど前にわたしがしたものです。そういう限定がついているほうがカメレオン度は高くなりますが、現在は「シャドーを自覚している」といったほうがいいのかなと思っています。同じシャドーでなくてもよい、シャドーを自覚していればOK。そんなふうに思っています。ちょっと定義が緩くなっているわけです。緩い方向へ動くというのは、何ごとに置いても良いものでしょう☺