抑鬱、無気力から労働はじめ社会参加がままならなくなりカウンセリングに行くようになりました。心理士さんの流派や私の見立ははっきりはわからないのですが、オーソドックスに安全基地や自己受容を目指して気力のリソースを作っていく感じだと思います。
しかしいざ安全基地を作ろうとするとそこに疑問や抵抗が続いてます。とういのは例えば夫の態度が攻撃的に感じられた時などに安全基地への抵抗が強く浮上します。「安全基地なんて作ってられない・人との信頼とか交流とかどうでもいい・自分で立ててさえ出来てればそれでいい」となります。私の本音はそこにあると感じます。でも夫が私を求めてる限り離れられません。もし夫に新しい恋人や好きな人ができて私が必要なくなったら私は無職でお金が無いとしてもただちに離れるでしょう。今までの経験から自分の「稼働の原理」はそこにあるのはわかるのですが、それをうまく使えないし、そこを変えるはずの安全基地の構築もできないというのが続いてます。
安全基地への抵抗を感じてる今この瞬間の私の願いは、
・1人になること
・1人の人生を成り立たせるシステムを構築すること
です。でもそれができません。
夫が機嫌を直して近寄ってくると上の意識は霧散するからです。夫に寄り添うことだけしかしなくなり自分の人生基盤を作る意識も無くなります。
自分が愛着障害かはわからないのですが、もしかして反応性アタッチメント障害なのかな?と高間先生の発信を追わせて頂いて思いました。それは反応性型は社会に出にくいと言われてたので。反応性型が自立して生きていくにはどうしたらいいのでしょうか?私は私を求める特定の相手と居なければ、鬱でも何でもとりあえず働けるので、私を必要とする人から離れればいい話なのですが、それがどうしてもできないのです…。
あなたが愛着障害か、またご主人はどういう人かは分かりませんが、一度一人になってみるのはいかがでしょうか。平日はひとり、週末は夫と二人で過ごす。
この体験から、「ひとりになること、孤独になること」がどういうことかが見えてくると思います。それが見えてきたら、次をどうするか、立て直しでも、新たな道でも、たどっていけるかもしれません。
家庭内別居でも、平日別居でも、数週間のひとり旅でも何でもいいので、孤独になれる方法を実行してみられるのがいいように思いました。
つまり、ご自身の孤独と向き合うということです。
■ひとりになるコツ
さて、ひとりになるにはどうすればいいのでしょうか。これは物理的にひとりになるということではなく、「精神的に」ひとりになる、ということです。
それには孤独を楽しむ心根が必要です。ひとりって楽しいな、これです。この状態でひとりで居ること。これがひとりになっているということですね。
昔と比べて今は、なかなかひとりになりにくい時代かと思います。ネットにつなげば24時間、誰かと一緒にいることができます。日本だけでなく世界中の人とつながっています。これは孤独にとって大敵と言えるかもしれません。
つながることは悪いことではありませんが、孤独の楽しみから遠ざかってしまいます。
21世紀になり、人はひとりになれなくなって、孤独の本来の意味を見失ったと思います。いまひとりになるにはどうすればいいのでしょうか。
そういうことを皆さんと一緒に考えたいです。この質問箱にコメントを追記していっていただけると嬉しいです。
お久しぶりです。おじゃまします。
「孤独の本当の意味」
孤独とはどういうものかとか、ひとりの楽しさの言語化ではなくて「意味」なんですね。わからなくても間違っててもいいから考えたいなと思いました。
ふと思いついたのは「マインドフルネス」です。自分が孤独(ただの孤立かもしれませんが)を受容し短時間でもその感覚にいる時は、過去も未来もなくただその瞬間の中にいる感覚だなと思いました。瞑想がカチッとハマった時のような。だから孤独はマインドフルネスに繋がるのではないかと。
そして書いてて思ったのですが、これはおととし質問箱で孤立について質問した時にコメント下さった方が教えて下さった「時間はなくなる平穏」に思いました。そのお話が頭の片隅にあったのだと思います。今、勝手に繋がって静かに感動しています。この場での皆さんの体験のシェアに改めて感謝申し上げます!
コメント続くの楽しいです。高間先生がファシリテーターの安全な空間での哲学的なディスカッションわくわくします。いつもありがとうございます。
『ひとりって楽しいな』って日々思ってる気がしますが私の場合「結局ひとりのほうが気楽だな」とか「ひとりでいれば人と比べることから距離置けるな」という消極的姿勢です。いわゆる単なる「ぼっち」。最近の言葉だと「弱者男性」が近い属性でしょうか。懐かしいベストセラー「負け犬の遠吠え©️酒井順子」のようなユーモアや矜持はありません。高間先生が「孤独はいいけど孤立は良くないよ」と繰り返し説明される後者に私はじめ中年以降の多くの人が足を踏み入れている。先のコメントの方が書かれたように人と一緒にいても自分でいられる成熟「誰かと一緒でも一人でも楽しいな」が理想です。しかし中央値は社会的孤立の方にどんもん寄っていると感じます。質問主さんが提示され高間先生が展開されたことと結構ズレてしまいすみません。

コメントありがとうございます。
しっかりとしたバウンダリー(自他境界)を持っている人は、精神的に成熟している人であって、ひとりになることも簡単だろうなと思いました。
瞑想という手段も、大勢の中でひとりになれる良い手段ですね。例えば、電車の中の瞑想とか、ですね。誰かといてもひとりになれるスキルは21世紀を生きるための重要なスキルといえそうかもしれません。
そういうことを考えつつ、質問箱に戻ると、(反応性型の)愛着障害の人が自立して生きていくには、やはり安全基地の構築が急務だと思います。そこに心理的な抵抗を覚えているということは、安全じゃなかった世界への郷愁など、何らかの(見えていない)チカラがそこに働いているということで、カウンセリングでは、そこにフォーカスを充てていくことになるでしょう。
高間先生、皆様こんにちは。私もなかなか1人になることが出来ない人間です。物理的に人と離れてSNSも触わらず過ごしても「友人の投稿にイイネくらいはしないとな…」とソワソワします。そんな時ひとりになるスキルが高い友人知人らが浮かびます。彼らは人と一緒にいてもSNSで交流しててもどこか「ひとり」な感じもあります。先生のnoteの愛着障害から回復した方が「人と一緒に居てもひとりになれる」とうお話に近いかもしれません。でもその人達が愛着障害かと言えばちょっと違う感じがするので、どうしてそうできるのか?と考えると先生が仰られたように「精神的にひとりになる/孤独を楽しむ」以外に個人的には「バウンダリーの強さ」を感じました。彼らからは善良さや他者への親愛が伝わってくるしそれが嘘とも感じません。でも本心は厚い壁越しで見えてこないというか。社会人としては必要スキルに思いますが、24時間接続の現代社会で「ひとりでいる」にはバウンダリーがより重要に思いました。「ひとり」の前段階の話になってしまいましたが、私はその段階なのでこのような感想を失礼します。