見切られると安堵するというご質問に共感を感じたのですが、それは本音ではないとのご回答で(誤読でしたすみません)自分も本心を我慢してるのかなと考えています。
孤立することを子供の頃から人一倍恐れてた気がします。でも同時に進級など節目で人間関係が入れ替わることは寂しくなくて晴れ晴れしさを感じてました。
だから軽く生きてこれたのですが、社会人として人生を重ねることはそうもいかず、またSNSの普及かエンドレスで人との縁が継続するようになりました。そこから上手く距離を置けず、結果だんだんと孤立して行きました。
でも孤立を確認する度に寂しかったり途方に暮れる感覚はありますが安堵感も感じてました。心細いし寂しさはあるけど時間差でホッとしてきて軽くなります。そして孤立してる生活の方が当たり前になってることを感じます。
これは自分の感情をないがしろにしてるのでしょうか…?昔のように繋がりたいと思う気持ちは時たまフッと浮かぶことはありますが数時間後には沈静化します。これは思考で深い感情を押さえつけているのでしょうか…?
こちらの質問の回答についての再質問ですね▽
▶因果的ではないことについて|自分の感情(こころ)から離れないこと
■ガマンする人は孤立する
この質問の方△は「私が以前から切りたい相手との関係が切れて安堵している」ということですので、安堵が本音ではなく、怒りが本音だと回答しました。「切りたい」と思っているわけですから。その「切りたい」という自分の怒りをないがしろにしてはいけないということをお伝えしました。博愛という言葉をつかって自分の感情をふさぐのは、こころの平穏から遠くなるよとお伝えしました。ガマンしないで、ということです。
そして今回質問をいただいたあなたもガマンしてきた人なんですね。ガマンしてきた人は人間関係から孤立しています。孤独を楽しめていません。孤立しているからその人間関係から逃げたく思っています。ですから進級などでクラスが変わると、一時的に孤立が解かれるので安堵するのでしょう。
■孤立している人は親からも孤立している
昔のように繋がりたいと思う気持ちは時たまフッと浮かぶことはありますが数時間後には沈静化します。
ときおりやってくる「繋がりたい」という気持ちは、あなたのこころの奥のほうで沈静している気持ちの現れなのではないでしょうか。普段はそれを感じないようにしているけれど、ときおり何かの拍子にそれが頭をもたげてくる。
ひょっとするとつながることを諦めないといけない親に対しての気持ちなのかもしれません。孤立する人は親との関係性でも孤立している人が多いからです。
親への期待が頭をもたげているのかもしれません。でもその期待は打ち砕かれることを知っているので、ちょっとだけこころがヒリヒリして、またその期待をこころの深い海の底に鎮めるのです。
まだ親をあきらめきれていないのですね。しかし簡単に親をあきらめるとはいいますが、その作業は途方に暮れる作業ではあります。毎日カウンセリングをしているとそれを私も実感します。
けれどクライエントさんがあきらめない限り、わたしもあきらめません。親をあきらめられるときは必ずやってくることを知っているからです。
■親をあきらめるには孤独を楽しめるようになること
孤立する話から親をあきらめる話に移ってきていますが、孤立はそういう側面を持っているということです。ここを抜けていくには、ひとりの孤独を楽しめるようになることです。
この作業は難しいですね。しかし私は孤独は楽しいことを知っています。ですから、このソレア質問箱でも、わたしのブログでも、カウンセリングでもいいので、孤独は楽しいことを実感していってください。
頭では実感できません。
- 日々の生活の中で、この寒い空気の中で、ひとりになってミカンなどを食べているときの時間の暖かみを感じてみてください。実感してみてください。
そこがスタートであり終着点です。
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この回答と違う視点でラジオでも話しています。よければどうぞ▽
私は、1人で時間の冷たさにホッとして、自分一人分の温かみにホッとします。これは孤独を楽しめてますか?ホットワイン飲んで雑踏を眺めながらホッとする時、時間はなくなる平穏と、物や行き交う人と切れてることを実感しますが、これはなにかのスタート地点で終着点で間違いないですか?くだらない質問ばかりして申し訳ないです
親をあきらめられてないことを自覚できてませんでした。でも納得するものがとてもありました。
私はまだ一人の時間を楽しめてません。寒い空気のなか一人家路に向かう夜、この先の将来の孤立にゾッとすることがあります。もう若くはありませんが、まだ辛うじて現実から目を背けられる年齢です。でも遠からずな未来に今の孤立が様相を変えることは容易に想像出来て、そんな時、芯から冷えます。
先の質問箱の方がここのコメントで教えて下さったように、一人の時間の冷たさにいつの日か、ホッとして自分一人分の温かさというものを感じれるようになりたいです。明日の帰り道は、みかんとホットワイン用の赤ワイン調達しようかなと思います🍊🍷過去や未来に心が彷徨う孤立から、時間がなくなる平穏という孤独に、いつか向かえますように。。ありがとうございました。
こんにちは。2回目の投稿です。とても興味深く、感想と質問コメントです。ひとりの時間を楽しめてる人とは、とても成熟してるイメージがあるのですが、そんな人でも本音と自覚してる感情にギャップがあるのは、結構あることなのでしょうか?
本文の質問文と高間先生のご回答と皆さんのコメントを読みながら、あまってたミカンとワインでホットサングリアを作りました。🍊🍷🫖すごくあったりました。「日々の生活の中で、この寒い空気の中で、ひとりになってミカンなどを食べているときの時間の暖かみを感じてみてください」「ホットワイン飲んで雑踏を眺めながらホッとする時、時間はなくなる平穏と、物や行き交う人と切れてることを実感します」共依存体質の自分にまさに必要な言葉に思いました。分離不安から人に迎合することがやめられず受動攻撃的になり自己嫌悪の日々…トホホ。アイデンティティが確立すれば人と切れてても安心できるんだなぁ…と、とりあえず頭では理解中です。これからも勉強させていただきます!(良い子ちゃん病的なことを早速言ってる気もしますが笑)
多くのコメント(下記)ありがとうございます。質問箱に答えるモチベーションになります。
そしてコメントへの回答を含めた記事をnoteに書きました。そちらもご覧ください▽
とても考えさせられました。脇からコメントを失礼いたします。ときどき話される「ガマンする人」とは、愛着のある人でしょうか?愛着があるから「ガマン」があるのでしょうか。愛着のない人はガマンという概念もないのでしょうか。我慢ではなく必死、それとも諦めでしょうか。自分がオートマチックにとる行動(自閉する/自己主張は負荷になるので避ける/人や状況を全部知らなくてはという非現実的な意識)は我慢なのか、それとも別のものなのかずっとわからなくて失礼しました。