先週のレター返しで「社会は勝負の場」と仰ってたのが印象的だったのですが、愛着に問題がある愛着障害や愛着不全の勝負の仕方は、どんな感じなのでしょうか?
また回復中や回復後は、どのように変化するのでしょうか?
また以前「社会性は副交感神経」と仰ってたのも気になってるのですが、そこらへんも、上の問いには関係してくるのでしょうか?
また愛着障害に関して「目に見える虐待」と「目に見えない虐待(単体)」の場合では、戦い方に違いは出てくるのでしょうか?
※いつくも質問をすみまん。
■愛着に問題がない人は社会とどう関わるのか?
愛着に問題のない人は、結果をもとめられる社会に折り合いをつけて生きていきます。「結果」というのは勝負、業績ですね。それは自分との戦いもあるし、他人との戦いもあるし、チームで他社と戦うこともあるでしょう。
これが行き過ぎると、耐えられなくなって、一時的にそのつらい現状を忘れるために、お酒とか(疑似)恋愛に走ることもあるでしょう。興奮してまぎらわせるのですね。これが依存症の典型パターンです。
適度な戦いならいいのですが、過度になりすぎると、このように依存症になったりうつ病になったりします。
■愛着に問題がある人は社会とどう関わるのか?
愛着障害の人は、社会と関わることから離れています。「回避」しているのです。表面上は社会にコミットしているように見えますが、それは彼らの外面に過ぎません。
たとえばぎっしりと予定を詰めて、仕事やりまくりの態勢を整えています。これは一見、さきほどの社会と戦っている普通の人のように見えます。
しかし実際は、社会から解離していて、その戦いのようなものをやっていたとしてもどことなく他人事です。ひとりで「それ」をやっているような感じです。勝負しているようで、そこから遠い世界にいます。こころは社会から遠く離れた世界にいます。
愛着不全の人は、社会に不適応を起こしている行動が顕著になります。ひきこもり、繰り返す転職、引っ越し、特に人間関係においての不適応ですね。
ですから社会と勝負する前に脱落している感じです。彼らは本心は社会と勝負したいのですが、社会へ放り込まれることが不安で、勝負から逃げる行動が優勢になります。
■愛着問題から回復すると社会との関わりはどうなる?
愛着に問題のある人でも、そこから回復していくと、社会との関わりをつなげるようになります。特にそれは愛着不全の人には顕著に現れます。彼らは回復の中で、自分の過去を回復させるのです。
愛着障害の人も社会の中で生きやすくはなりますが、どことなく「ひとりでいる」感じは残ったままになるかもしれません。しかし以前とはくらべものにならないくらい、それは生きやすくなるでしょう。
■社会的な対応と副交感神経について
自律神経の働きを説明したボリヴェーガル仮説によると、【社会的な対応】というのは、どの部位で行われるかというと、お腹側の副交感神経が関与しているらしいのです。
この仮説には愛着については一切登場しませんので、副交感神経と愛着は無関係といえそうですが、そうでもないかもしれません。
というのも、背中側の副交感神経が【凍りつき】行動を起こすといいます。
・お腹側の副交感神経は「愛着のある世界」→社会
・背中側の副交感神経は「愛着のない世界」→非社会
とみると社会性と副交感神経との関係性が見えてくるでしょうか。
■虐待と社会との関わりについて
虐待の程度については、当然、社会との関わりの程度に影響はするでしょう。ひどい虐待を受けて育つと、社会との関係を断ち切って孤立して生きるというのは想像できますね。
しかし虐待は「愛着のない世界」ゆえ非社会であり、それは虐待の程度に関係ありません。彼らはおしなべて「非社会で生きのびる人々」なのです。
愛着不全はかなりの割合で「共依存」関係を作ります。そのため彼らが回復していく過程で、共依存→相互依存に変わっていきます。
愛着障害は共依存はもとより、依存状態を作りません。回復していくと相互依存のような関係性になれなくもないですが、どこかひとりで生きている感じは抜けないでしょう。
双子を見つけて相互依存になりますが、その双子が遠い感じが愛着障害です。双子については▽
相互依存の観点からの質問にも御回答ありがとうございます。共依存や相互依存など一般に流布している言葉でお話して頂けると愛着への理解が進むなと感じます。スタエフもありがとうございます。愛着障害の生きる「非社会」について新たに気になってしまってますがキリがないのでお礼に留めます。また感想の形などで纏まりましたらレター等、軽めにお便りさせて頂きます。重ねましてありがとうございました。
詳細な御回答ありがとうございました。
拝読して考えたのですが、この話を「相互依存」の観点からも見れるのかなと。。
質問を重ねる形で申し訳ないのですが、愛着障害/愛着不全の「相互依存」の内実は、どんな塩梅なのでしょうか?
つまるところ愛着の問題とは人間関係(社会も人と人なので)に帰着して、それは言い換えれば、相互依存の達成率とも言えるのかな…と。。