記事を拝読しはじめて2ヵ月になります。基本的なことで恐縮です。
- 「親密さ」とは「自分が自分らしくいられ、相手のその人らしさも承認できるような関係(レーナー)」という定義でいいですか?
- また、愛着障害の人は愛着が形成されないと、なぜ親密さを恐れるようになるのでしょうか?「基本的信頼感がない」ということと「親密さを恐怖する」がどう繋がるのか分かりません。もし経験不足による違和感ならば慣れの問題だと思います。
親密さとは、相手に対してこころを許している状態です。相手を信用してオープンな状態で居られることをいいます。
この状態であれば、自分らしくいられ、相手のことも承認できるでしょう。
愛着障害の人は基本的信頼感や絶対的安心感が構築されていません。安心感ゼロの世界を想像してみてください。例えば、あなたがいま戦禍にいると想像してみてください。上空を砲弾が飛び交っている、それが愛着障害の人の日常です。
戦禍ではこころが自由になることはありません。
愛着障害の人は対人関係においてこの「戦禍」を経験し続けています。日常で起こることに対して常に恐怖があるため、オープンになることができません。相手と打ち解けることはできません。近くに人がくれば逃げます。表面上はうまくやっているように見えることがあるでしょう。しかしこころの距離は遠いです。
これは慣れでとうにかなるものでもありません。つまり(認知)行動療法ではどうにもできません。戦禍を収束していくこと。この一点に尽きます。この戦争を終わらせるためにカウンセリングは進みます。
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レーナ―という人は知らなかったのでちょっと調べてみました。この臨床心理士のサイトを参考にしています。親密さの定義は以下になります。
- 関係の中で自分を犠牲にしたり裏切ったりせず、相手を変えたり説得しようと言う要求を抱かずに、相手のその人らしさを承認し合うこと。(親密さのダンス)
つまりもう少し分かりやすくいうと【自分もOK、相手もOKの状態で、お互いの存在を大切にすること】ですね。
これを臨床的な視点で押し進めると【相互依存】ということになります。つまり良い共依存状態です。
コフートはこの概念を双子自己対象としました。ここまでくるとレーナ―から離れていくかもしれませんが、臨床的にはそういうことです。
愛着不全は親密さへの恐れはないでしょうか?
私は愛着不全でカウンセリング中ですが、人に対して心を許している感覚はありません。これは見捨てられるのが不安だからで、親密さへの恐れに由来しているものではないという点が愛着障害との違いでしょうか?