先生がスタンドエフエムで紹介されていた高橋和巳先生の『親は選べなくても人生は選べる』を読みました。感想としては幼少期にあるがままを養育者に受け止めてもらえるなんて余程のレアケースではないかとも思いましたので著書冒頭からまるで意味が分かりませんでした。
高橋先生によれば90%がそういう家庭だそうですが(p.10/ l.13)少なくとも私は全くイメージ出来ません。他者にそんな風にケアできる人ばかりなら、この世界はもっと平和で愛に溢れてるはずなのにそうなってないのが何よりの証左だと思います。本当に愛着を築くことのできる家庭が9割なのでしょうか?他者に何かを期待するにはそれ相応の対価が絶対に必要ですが、それならば子供は養育者に老後の世話を言外に自明のものとして義務付けられてるということでしょうか?あるがままに受け止めるという事の意味するところは何でしょうか?
「養育者に受け止めてもらえる」というのは母性との間に愛着関係が成立していることです。この愛着を90%くらいの人が持っているよ、と高橋先生は言っているのです。
そして愛着というものは、条件なしのものです。言い換えると、それが母性とは条件なしのもの。条件付きではありません。だから「世話をしてやるから老後をよろしく」なんて0歳の子に向かって言っている親がいたとしたら、そこには愛着関係がずいぶんと問題あることになります。愛情はあるかもしれませんが。
愛着は生きる上であたりまえで、愛情のほうがいささか問題がある
▶愛着は母と子のきずな|愛情は親子・恋人・友人とのきずな(2022.09.18追記)
母子関係は愛着のある関係だから問題はなく、世の中は愛情のある関係だから色々と問題が噴出しているのです。愛情は「いささか問題あります」から。
■あるがままに受け止められた経験
子どもは養育者(母性)からその全存在を肯定されて育ちます。つまり「あるがまま」の自分を肯定されて育ちます。
しつけが厳しくとも、その存在を肯定されている体感があるなら、子どもは親に従って、親に守られている感覚を持って乳幼児期・学童期を過ごします。
体感=体の感覚、これが一番大切です。頭で理解しているだけでは浅い理解です。身体で感じていること。分かりやすい言葉でいうと、こころを感じていること、ですね。身体はこころと同じ次元のものですから。それに比べて頭というのものは表面的なものです。
- あるがままに肯定されている体感があること
これがあるがままに受け止められていると子どもが感じるための条件です。
■あるがままは子どもの特権
こうやって子どもは、乳幼児期にあるがままに親に受け止められて育ちます。この「あるがまま」は老年期(65~70歳以降)にも出会うことになります。
ニーチェは、ラクダ→獅子→子ども と容態を変化させて成長するといいます。これを心理発達と合わせて考えると、次のように対応しています。この対応は私が臨床の中で体感したものです。ですから参考論文はありません。
- ラクダ→獅子→子ども
- 成人期→中年期→老年期
▶目標を達成するための「待つ、備える」が苦手です|目標は達成しなくても良いです
上のnoteに少し書いてありますので参考にしてください。
最後に獅子は子どもに変身を遂げます。純粋性や無垢なるタマシイ、新しいものを創造する象徴としての子どもです。「あるがまま」に生き始める、成人期3期(老年期:65歳以上)に相当します。
乳幼児期にあるがままに生きていた子どもは、老年期にまた「あるがまま」に還ってくるのですね。循環している感じで面白いですね。これで人生が丸く収まるのです。
悟りにいたる10の段階を10枚の図で表した禅画・十牛図(じゅうぎゅうず)。ステップ1からステップ10までを何度も繰り返して成長することを表現した図です。これを人生全般にまで広げると、今回の話になるでしょうか。丸く収まるのです☺
・十牛図とは悟りへの10ステップ▽
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質問です
先生は、精神とこころは類義語でお使いですか?