死ねない苦しみと死への共感【カンザキイオリ、命に嫌われている】

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治療が進んでいくと死にたい気持ちは少なくなっていきます。それと同時に苦しくなってくる。苦しさゆえ依存的な嗜癖行動にも走ることもあるでしょう。これらの幾つもの峠を乗り越えていくことが治療ですが、そのためにはカウンセラーの腹が座っていないといけません。

カンザキイオリ、命に嫌われている。

彼女は、「死にたいなんて言うなよ」と言うのは馬鹿げている、と歌います。死んでもいいよと見ていてほしいのです。誰も本気で死んでいいよとは、大切な人には言いません。しかし死ぬなと言われると、余計に死にたくなるのが人間の感情というものです。反対のほうに振れる。天邪鬼のように見えますが、感情というのはそういう反作用的なものがあるのです。

だから彼女の、「死にたいなんて言うなよ」なんて言ってほしくない、というのは実にマトモなメッセージなのです。これは、死を肯定しているわけではなく、死にたい気持ちを肯定しているのです。

じゃ、どうすれば死にたい気持ちを肯定できるのか。そこは見ているしかありません。腹を決めて死にたそうな人の言動を見ている。確かにハードな作業です。

昔、斉藤学先生の有料のネット掲示板に登録していたことがありました。そこには、死にたそうな書き込みが溢れていました。そこに、先生が何て答えていたのか。それは「分かりました。」という一言なのです。

これは死んでいいよということではありません。死にたい気持ちは分かったよ、というメッセージなのです。死にたい気持ちを肯定する言葉です。この言葉は誰にでも使える言葉ではありません。本当に分かってくれる人が使って、初めて相手に伝わる言葉なのです。斉藤先生だからこそ使えた言葉なのでしょう。

「分かりました。」その言葉は、私に使えるか。自問する日々です。

死ねない苦しみ

死にたいと苦しいは葛藤状態にあります。死にたいと訴える人は少なくありません。カウンセリングが進んでいくと死にたい気持ちが納まります。時間はかかりますが、そのプロセスを必ず通ります。

それと同時に苦しい状況がクローズアップされてきます。死にたいと思っていたときはさほど苦しみを感じなくて済んだのです。いつでも死ねると思っていたわけですので、苦しみをかわすことができた。

しかし死にたい気持ちがなくなっていくと、苦しみをかわせなくなり、苦しみに直面せざるを得なくなります。

このプロセスは必ず経験しますが、そしてこれは通過していくわけですが、とても苦しいのです。途中、また死にたい気持ちにシフトすることも当然あります。そこをクライエントとカウンセラーは持ちこたえていくわけです。

このプロセスを通過するには、カウンセラーによって死にたい気持ちを肯定されないと、そこから抜けていけません。死にたいに共感すること、これは死にたい気持ちを納めていく唯一の方法でしょう。これはカウンセラーにとってはとてもハードな作業になります。カウンセラーが追い詰められる瞬間です。追いつめられながらもそこで踏ん張ること。

死にたいが消えると苦しいが上昇します。そしてその苦しみをなんとか回避しようとする。死にたいとは思えないので、その代わり依存症の行動に走っていくということはあるでしょう。アルコールや薬物や食べ物や買い物、そんな依存症行動です。苦しみのなかの依存です。

そこも通過点ですので、それも良しとしていくこと。カウンセラーはその度に勝負を仕掛けられているのです。クライエントのその時々の気持ちを全部肯定していけるかという瀬戸際に何度も立たされるのです。

クライエントは何とかしてほしい。でも何ともできない。その何ともできない気持ちをカウンセラーがこころの中でキープできるのか。それが勝負です。クライエントと勝負しているのではなくクライエントから発せられる言葉によって、カウンセラー自身が自分と勝負しているのです。

いくつかの山を乗り越えていく。カウンセラーがウッと詰まる瞬間、その峠を乗り越えていくことが援助するということですね。

解離性同一性障害(多重人格)

この話が一番分かりやすいと思います。治療が進んでいくと人格交代できなくなります。別の人格を出せなくなるのです。治療はうまくいっているのです。でも、それで人格交代できないわけですので、苦しくなります。

死にたい気持ちがなくなると苦しくなる。このことと同じです。

苦しさが終着点なのか?

治療が進んでくると、死にたい→死ねない→苦しいとシフトします。

この【苦しい】状態は葛藤している状態です。そうするとこの死ねないシフトは、葛藤がない→葛藤がある→苦しいというふうに読み替えることができます。苦しいのは「葛藤している」からです。つまり葛藤が生まれるというのは生きている証です。人は生きている限り葛藤から逃れられません。

これは苦しいことでしょうか?確かに葛藤がないに越したことはありませんが、葛藤があるからこそ人間的に生きられるのです。葛藤がない人は周囲の人からみると迷惑な人になりますから。

そしてこの葛藤の先には、苦しみ→自分への理解→歓びという方程式が待っています。

苦しみというのは自分への理解を促進させます。自分を本当に理解できたら、そのとき歓びがやってきます。それはまるで、プレゼントのように思えるでしょう。

死にたい気持ちを傾聴され、様々なこころの動きを整理したいときは、ソレア心理カウンセリングセンターへ。

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