孤独の力学★母子葛藤のない世界を生きる

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2つの心理学的な力学~孤独か、愛着か

前回は、母と子の愛着をめぐる攻防戦というお話しをしました。愛着があるからこそ、母と子の間で葛藤することができる、親子喧嘩をすることができる、という話でした。では、愛着を結べなかった人はどうなるのか、というテーマが今回のお話しになります。

愛着がないということは、母子葛藤がないということです。喧嘩ができる相手がいるということは、こころの底のほうで安心をしているのです。つながりが切れない核心をもっているのでぶつかるときには安心して容赦なく激しくぶつかれる。これを基本的信頼感といいます。この信頼感があるからこそ、母と子の葛藤が生じるのです。葛藤というのはお互いにぶつかりあって、折り合う地点を見つけることでした。

母と愛着を結べなかった人は、この信頼感が非常に薄い。ですから、母とぶつかることもないし、人とぶつかることもありません。「手ごたえのない人」と世間的には見られることもあるでしょう。では、こういう人はどのように、人間的な信頼感を取り戻していくのでしょうか。

いま手塚治虫の「どろろ」のアニメが一部のファンの間で人気だそうです。どろろは、主人公の百鬼丸が鬼を倒しながら自分の身体を回復させていく物語です。彼はそうやって人間として生きるための信頼感を取り戻しているのです。「鬼を倒す」というのは比喩的な行動ですが、これは心理的にはいったいどういうことをしているのでしょう。

人は普通は、愛着という重力の中で生きています。だいたいの人は、愛着を経験していますから、そのことに気がつきません。世界の基本法則が愛着で成り立っているということに何の疑問も差し挟まない。そのくらい自然に、重力のように感じています。それに反して、その重力が弱い人々は、どうやって生きているのか。重力が弱いので、身体は宙に浮きがちです。これを解離といいます。けれど、解離ばかりしていては、日常での生活が非常にやっかいになります。そこで宇宙服を着て錘(おもり)を着けて、地上に足を着地させながら生きることになりますが、この生活ではとても生きいくのにハンディキャップがありすぎます。しかし、そうするしかありません。では、彼らには愛着に代わる重力があるのでしょうか。

「代わる」と申しましたが、彼らが愛着という重力を回復する視点も重要ではありますし、回復できないわけではありません。しかし、なかなか普通の人のように地上にいるようには、それは回復していきません。最後には愛着のようなものを手には入れることができなくはないですが、やはりそれも何だか「のようなもの」です。では、それに代わるものがあるのか。

彼らは、孤独という後天的な資質を持って成長していきます。この孤独こそ、愛着に代わるものになりうるものなのです。私の書いた「孤独と愛着」という本のタイトルは、まさにこのことを表現しているのです。しかしあの本には愛着のことは書いてありますが、孤独のことはチラチラとしか出てこないかもしれません。ただ、孤独のムードはたっぷりと漂っていると思います。お持ちの方は、いま一度読み返してみてください。

愛着のことを論じるには愛着理論がありますが、孤独のことを論じる孤独理論なるものがあるのか、ないのか。それを待たないといけない時期なのでしょうか。私には、今のところは、よく分かりません。

確かなのは、彼らは愛着の代わりに孤独を、人生の羅針盤にして生き続けているのです。孤独か、愛着か。この2つの心理学的な力学は、人が生きていくために必要な力学なのでしょう。人はなぜ一人で生まれて、なぜ一人で死んでいくのか。これは生命というものを考えると意味のない自明なことのように思いますが、孤独に人生をスタートして孤独に人生を閉じていく、まさに孤独の旅路が人生そのもののようにも思います。すると、この「孤独」という力学は、生物にとって、もっともベーシックなもののようにも思えてきます。

愛着を回復するというより、孤独を回復させていくような。コフートが晩年に、自己愛性人格障害という言葉を捨てて、自己の障害のある患者と表現し直しました。コフートと比べるのもおこがましいというものですが、それに似ている表現でしょうか。しみじみと孤独に居る、そういう場所です。決してやせ我慢ではありません。だからさみしくもありません。

孤独についは今後、いろいろな視点から見ていきたいと思います。

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